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第29話
「もうそろそろよね……。日にちとか連絡してもらえないの?」
由香里さんの声が母に問う。
「訊いてみたけどダメだって。達樹さんはどうにかして調べようとしてるけど……」
「──簡単には漏 らさないだろうね。どこで暮らすかも分からないなんて酷い話。……ああ、もう。ほんとになんで菫ちゃんがあんな目に合わなきゃならなかったの? 絶対に許せない……」
──え? 菫? なんで菫の名前が出てくるんだろう……。あんな目に合ったって何……
ドン、バタバタ、と外から誰かが家に入って来る音がした。開口一番「母さん、桜は?」と訊く風吹の声がする。
「まだ寝てるよ。静かにして」
「医者は何て?」
「多分、軽い脳貧血 だろうって。昨日から遊びに出かけてたって言ったら、疲れが出たのかもしれないって事だったよ。アンタまさか、一晩中寝かさなかったんじゃないでしょうね?」
由香里さんの言わんとしている事は、何を指しているのか明白だった。訊きにくい事をズバリ問う性格を、風吹が真っ直ぐ引き継いでいるのだろう。
「そっ……そんな事はねぇよ。寝たって、多少は」
ああもう……。風吹も正直者なんだから。
「まったく、最初っからガツガツすんじゃないよ。これからずっと一緒にいるつもりなんでしょ?」
「いや、最初だから加減が分からなかったつーか……って、何の話だよ」
「だから、桜くんとの事。さっき芹ちゃんに聞いたよ。するんでしょ? 結婚」
「する」
風吹は即答した。
「実の親より先に相手の親に報告すんな。反対するつもりはないけど、大事な事はちゃんと伝えなさい」
「ごめん。旅行から戻ったら母さんいなかったから。おばさんに早く認めて欲しくて先に言った」
「まぁ、いいわ。ただ母さんは良いけど、お父さんはどう思うか分からないよ。あの人変に型にはまったとこあるし」
「ちゃんと言うよ。認められなかったら、俺は家出るから」
由香里さんはふぅ、とため息をついた。
「そうなるだろうね……。とりあえず母さんは味方するけどね」
「助かる。俺、桜見て来るわ」
シュッと襖を開く音がした。風吹がほとんど走るように僕の元へ来てくれるのが分かった。
「桜……」
小さくつぶやいて、風吹が僕の額に手を当てる。大きくてあったかい手が僕に安心をくれる。動かなかった身体に少し力が戻った。
「……風吹」
「桜! 気がついたか、良かった!」
心底、安堵 した顔で風吹が言った。僕は身を起こそうとした。「まだ無理するな」と焦ったように風吹が言う。
「桜、気づいたのね。良かったわ」
母も急いで僕の元に来た。廊下と部屋の境目の所に由香里さんが立ってこっちを見ているのも確認できた。
「ごめん。僕、意識失っちゃったんだね……」
「そうよ。こっちからドサッて音がしたんで、お母さんビックリして来たの。そしたら桜倒れてて、近くに般若 の面が落ちてたわ」
「……ああ、そうだ。僕、おじいちゃんの作った面を見てて、そしたら急に気分が悪くなって……」
言っている内に、面の向こうに見えた父の姿を思い出した。とても恐ろしく、同時にひどく哀しい光景──
僕は寒々しい思いで上半身だけ起こした。
「お母さん、僕どのくらい寝てたの?」
「そうね……。二時間くらいかな。ここで倒れてて、呼びかけても返事がないし起きないから心配したわ。救急車呼ぼうと思ったんだけど、寝息は安定してて熱も無さそうだったから、坂倉 先生に往診に来てもらったの」
坂倉先生はうちの近くにある坂倉外科の院長で、結構年配だけど休みでも夜でもすぐに往診に来てくれる優しい医者だ。外科なのに専門外の事にも詳しくて、僕は良くお世話になっている。
「桜、気分は悪くないか?」
風吹が僕の背中に手を回して支えてくれる。僕は首を横に振った。
「だいじょぶ。寝てたせいかスッキリしたかも。由香里さん、すみません。お騒がせしました」
僕は風吹と母の後ろにいる由香里さんに向かって言った。由香里さんは小さく笑みを浮かべて手をヒラヒラ振った。
「気にしないで。買い物から戻ったら、たまたま坂倉先生が出て行くところに行き会ったの。芹ちゃんに事情を聴くついでに上がり込んじゃっただけ」
由香里さんは母の事を〝芹ちゃん〟と呼んでいた。母の方が少し年下だと思ったが、二人共会って話し出せば延々と井戸端会議するほどの仲だ。
「何か飲める?」
母から訊かれて僕は「水飲みたい」と答えた。母が席を外すと、由香里さんが風吹の隣に座る。
「こんな時になんだけど、風吹と桜くんの事聞いたわ。私は賛成よ。桜くん、風吹をよろしく頼むわね」
「あ……ありがとうございます。すみません……、風吹の相手が僕なんかで……」
恐縮して言ったのは、風吹が天ケ瀬家にとって自慢の息子だからだ。優秀で見た目も良く、資産家の天ケ瀬家にとって風吹は期待の星だろう。当然由香里さんも、ちゃんとした家柄の女性を嫁に取るよう本家から言われているはずだ。
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