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第34話
そういう、ひとつひとつの優しい気遣いが、風吹をすごく愛おしいと思う大きな要素になっている。人を好きになるのに〝条件〟が必要なのは真実の愛じゃない、という考えのひともいるだろう。
でも心で誰かを好きになる以上、相手の性格の好きなところを自覚するのは大切なことだと思う。ただ闇雲に好きだの愛してるだの言うのは、のぼせているだけで一時的な激情なだけ、という気がした。
風吹は射精した僕の体液をティッシュで拭いて、パジャマを着せてくれた。そして僕の背中から腕を回して「おやすみ」と言うとすぐに寝息を立て始める。
ほどなく、僕も眠りについた。
深夜、微かな声が聞こえて目が覚めた。横を見ると僕に背を向けた風吹が珍しく寝言のような声を上げていた。
僕は風吹の体調が悪いのかと思って、焦って身体を起こした。豆球のぼんやりした灯りで見えた風吹の顔はギュッと眉を寄せて苦渋 の表情を浮かべていた。
また何か小さくつぶやく。起こした方がいいのだろうか? 僕は風吹の様子をもっと良く見ようと、更に顔を近づけた。
「……菫……ごめん……」
声は小さかったけれど、その言葉はハッキリと聞こえた。薄闇の中、風吹の頬から流れた涙が淡く光る。
僕は呆然とした。
ごめん……? ごめんってどういうことだろう。
風吹は菫に対して何を謝り、何に涙しているんだろう。
──答えは一つしか無いように思えた。風吹は昔からずっと好きだった菫への気持ちを押さえつけて、弟である僕を生涯の伴侶 として選ぶ事にした。その決意を菫に対して謝っているのでは……?
菫を忘れる事。その為に僕を好きになろうとする事。それは幼い頃からの純粋な気持ち……菫を好きだという気持ちへの裏切りになる。風吹が謝る理由はそれしか考えられなかった。
今日は僕と昔の思い出話をしたから、風吹の夢に菫が出てきた。夢の中でしか会えない菫に謝っているのかもしれない。
僕は風吹を起こすことも出来ず、呆けた様に風吹の涙を見ていた。しばらくしたら風吹は、寄せていた眉根を緩めてスースーと寝息を立て始めた。
菫……。
僕……。
菫……
その時、僕の中で何かが壊れた音がした。
翌日は雨だった。銀色の細い糸が絶え間なく空から降りてくる。今年は六月に入っても晴れが続いて梅雨入りの発表はまだだった。でも今日あたり梅雨に入ったというニュースが流れそうだ。
学校は休みだけど、泊まった時の洗濯物もあるし僕は早めに起きた。風吹がまだ僕のベッドで寝ている間に、洗濯機を回して朝ごはんを作った。
「おはよ。早いな、桜」
台所に風吹が来て言った。ボサボサの銀髪は前髪が濡れている。顔を洗って来たようだ。
「……おはよ。もっとゆっくり寝てても良かったのに」
「いや、もう死ぬほど寝たわ。雨だなー。今日どうする?」
風吹は僕が焼いた玉子焼きに手を伸ばす。僕の作るのは少し甘めのだし巻きたまご。初めて作った時、風吹が美味いと言ってたくさん食べてくれたので、それ以来ずっと同じ味にしている。
「うま! やっぱこの味だよな。さすが桜」
「ありがと。雨だけどどこか出掛ける? 屋根があって遊べるとこあったっけ?」
昨日はあれから途切れ途切れにしか眠れなかった。だから出来れば家でのんびりしていたい。
でもこんな時、菫なら遊びに行きたい、と言う気がした。運動が得意だった菫は風吹ともよくバドミントンやキャッチボールをしていた。菫なら、身体を動かす遊びをしたいと言い出すだろう。
「ラウワンでも行く? 平日だから空いてるかも」
僕が言うと、風吹は眠そうな顔を更にしかめた。
「桜、あんま顔色良くないぞ。今日は家でダラダラしよう。ゲームでもやるか」
「だ、大丈夫だよ。僕、元気だよ。風吹も身体動かしたいでしょ?」
風吹は僕の頬っぺたに大きな手を当てた。
「昨日は倒れたんだ。無理しない方がいい。そうだ、映画見よう。ネトフリは……桜んとこは契約してないよな。うちじゃなぁ……」
風吹は目を閉じて思案する顔をする。風吹は何故 か昔から、自分の部屋より僕の部屋で遊ぶことが多かった。うちより風吹の家の方がずっと広くて綺麗なのに……。
でも考えてみれば風吹の部屋に行くには僕が玄関からお邪魔することになる。挨拶なしでベランダから突入できる僕の部屋の方が気楽なのだろう。
「俺のノーパソだと画面小さいし……。おし、決めた。久々にレンタルビデオ屋に行こう。二、三本借りてアイスでも買って来ようぜ」
そう言うと風吹は椅子に座って箸を持った。「いただきます」と挨拶してから僕の作った朝食をバクバク食べ始める。
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