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第38話

「……え?」  僕はキョトンとしてタクを見た。タクは長いまつ毛を柔らかく伏せて、誰もが見惚れるような笑みを浮かべている。僕はしみじみとタクを見返した。綺麗な顔。女性的で、優しく美しい顔立ち……。 「拓先生?」  ポンと、唐突にその呼び名が頭に浮かんだ。昔の記憶が呼び覚まされる。あれは確か、小学生の頃── 「そうだよ。思い出してもらえて嬉しいよ」  ニコリとほほ笑んだ彼を見て、僕の中の古い思い出が徐々によみがえって来た。拓先生は、僕が今の家に越して来る前にいた場所で、隣の地区に住んでいた大学生だった。  小学五年生の時、同じクラスの男子で少し仲良くなった子がいた。確か安田理久(やすだりく)くんという名前の気の弱い男の子だった。家が裕福で、高価な服や持ち物が妬みを買ったらしく、一部の意地悪な児童からいじめられていた。  ある日、僕は安田くんが数人の男子児童にお金をせびり取られているのを見てしまった。怖かったけど「やめないと今すぐ大人を呼んでくる」と言って僕はそいつらを止めた。それ以来、安田くんは僕に懐いてしまったのだ。  いじめっ子を止めて僕がそいつらの次の標的にならなかったのは、(ひとえ)に風吹のお陰だったと思う。風吹はその頃から身体も大きく、幼稚園の頃から近所の空手道場にも通っていた。  風吹は上級生が相手でもケンカに負けたことがなかった。僕をいじめたり嫌がらせをしたりする、という事は、僕と仲の良い風吹を敵に回すことになる。いじめをする奴らもそれを警戒したようだ。  僕自身は風吹という虎の威を借りて大きな顔をした事など一度もない。でも安田くんを助けた時は風吹と友達で良かったとしみじみ思った。集団でいじめをしてくる奴の標的になるのは、いくら何でもキツいしツラい。  いじめは良くないとか、いじめは犯罪だという正論は、当の子供達には通用しないものだと思う。結局、どこの学校でも大なり小なりいじめという犯罪は繰り返されているし、それに巻き込まれたら生活が苦痛になるのは誰であれ同じだろう。  いじめっ子に手を出されない僕を、安田くんは何かと頼るようになった。一度うちに遊びに来て欲しいと言われ、大きな邸宅にお呼ばれしたことがある。その時、家庭教師として安田家に来ていたのが〝拓先生〟こと松浦拓見(まつうらたくみ)だった。  安田くんは五年生になって急に難しくなった算数の授業について行けず、親が家庭教師をつけることにしたらしい。中高一貫校を目指せと親から言われていたようだった。中高一貫校はかなり偏差値が高く、学年順位で最低でも十五位以内に入っていないと安全圏ではないと言われていた。安田くんの成績は学年どころかクラスでも中の下くらいだった記憶がある。  多分、安田くんは勉強がさほど好きではなかったのだろう。家庭教師が来る日だというのに僕を自宅に呼んだのは、どうにかして勉強の時間を減らしたかったのかもしれない。  安田家に来た僕を、困った顔で見たのは安田くんのお母さんだった。僕は自分が邪魔だとすぐに気付き、お(いとま)しようとした。でもそこで「良かったら君も一緒に宿題をしていくかい?」と訊いたのが拓先生だった。  僕は安田くんの部屋で一緒に宿題をすることになった。今考えると家庭教師を雇うのはお金が掛かるのだから、よその子を勉強の場で同席させるのは、親にとっては以ての外だろうと思う。  ただ、安田くんのお母さんは拓先生が相当のお気に入りだったらしく、先生の提案をあっさり受け入れてくれた。僕はその日、安田くんと一緒に拓先生に勉強を見て貰う事になった。  安田くんは僕が一緒に勉強した事がとても嬉しかったようだ。拓先生が教えてくれる問題の解き方も、その日は熱心に聞いていた。翌日の小テストで安田くんは百点を取れた。僕も満点だった。  それに気を良くした安田くんのお母さんは、拓先生が来る日に僕を誘って来る様になった。僕も僕の母も、ご迷惑だからと遠慮しても、わざわざ電話を寄越してくる。  なぜなら僕がいる方が安田くんは勉強に集中するからだ。僕がいない日の安田くんは、拓先生の授業に身が入らないとも言われた。そんな事情で僕は家庭教師が来る日の安田家に、ちょこちょこ出入りするようになってしまったのだ。 「元気にしてたかい? 桜くんが急に引っ越してしまったから、寂しかったよ。理久くんも元気をなくしてしまって、慰めるのが大変だったんだよ」  拓先生は優しい笑顔で言った。拓先生とは子供の頃短い期間しか会わなかったせいか、今まで思い出す事はあまりなかった。でもその穏やかな笑みを見て、丁寧に勉強を教えてもらった事が蘇ってきた。

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