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第45話

「──ごめん、お母さん。長い間、ひとりで辛い想いをさせてしまって……」  僕は母の手を握り返した。座卓の上にポタポタと水滴が落ちて行く。母と僕は手を握り合ったまま、しばらく泣いていた。 「ぼく……僕、菫を殺した奴を許せない。当時中学生ってことは、もしかして少年法とかで守られてるの? 詳しくないけど……」 「その通りよ。当時十四歳だから少年刑務所に行くこともなく、少年院で過ごしてるらしいわ。しかも、それも終わるかもしれないの。そろそろ出所する可能性が大きいみたい」 「そんな……! なんで人を殺しておいて簡単に出てこれるの?」  母は苦悶(くもん)の表情を浮かべた。下を向き、肩を震わせている。 「──それが……この国の司法の現状なの。特に少年には〝更生〟に重きを置いているから。若ければ若い程、やり直すチャンスが必要という考え方なんでしょうね……」 「なんで──。だって殺されてしまったひとは……菫はもう、やり直すことなんて出来ないのに……」 「そうね……。残酷よね……。でもそれが現実なの」  僕は震える手で、箱の中の記事を手に取った。もう七、八年()つ記事は紙の色が茶色に変色している。 「お母さん……僕の勝手な印象なんだけど、小学生の女児が中学生に殺された事件にしては記事が少なくない? なんかサイズも小さい気がするんだけど……」 「──分かる? ちょうど菫の事件があったすぐ後に、大きな地震や大雨の災害が全国あちこちで続いたの。ニュースはそっちに重点を置いていて、菫のことはあまり取り上げられなかった。犯人も早く捕まったし、みんなの興味はすぐに薄れたのね……」  そういう事か。 「最初はしつこかったマスコミも菫の事件を取り上げることが急激に減ったわ。それで桜が事件のニュースを、テレビや新聞で見る機会も少なかったと思うの」  母はやりきれなさと、つかみどころのない虚無感(きょむかん)のある表情で僕を見つめた。 「あなたが連日、菫の写真をあちこちで見るようだったら、とてつもないストレスになっていたでしょう……。あなた自身が菫のニュースを〝記憶に残さない〟ようにしていたことにも、限界が来たかもしれない」  ……僕は思い出さなくて良かったのだろうか? 実の姉が殺されたというのに、その事実を知らないまま何年も生きて来たなんて──。 「桜、あなた顔色がすごく悪いわ。少し横になってなさい」 「……でも、僕はお母さんにもっと訊きたいことがある。犯人のことも……その他の色々な出来事も……」 「ええ、分かるわ。でも今は休んで。菫の死の原因を知っただけでも、かなりの負担になってるはずよ。特にあなたは身体が弱いし……」 「──っ」  実際、心臓が恐ろしいほどの勢いで脈打っていた。息苦しさもある。情けない。僕は自分の身体と心にウンザリした。何故(なぜ)こんなにも弱いのだろうか。 「お母さんのお布団に寝る? ここで寝てもいいわよ」 「……ううん。自分の部屋に行く。この──箱は借りていい? 落ち着いたら読んでみたいから」 「そう……。分かったわ」  僕は母の部屋を後にした。菫の話をしたことで、多分母もかなりつらかっただろう、とは思った。でもそれを気遣う余裕もなく、僕はトボトボと自分の部屋に向かって歩いた。  自室の机に箱を置いた。菫はこんな小さな箱の中で、僕が事実を知るのを何年も待っていたのだろうか。たったひとりの姉弟の重大な出来事なのに、僕は知ろうとしなかった。なんて最低な人間なのだろう……。  自分を責めてボロボロと涙がこぼれた。僕は少しでも落ち着こうとベッドに横になった。一瞬身体は楽になったけど、気持ちは激しく乱れたままだった。  菫は殺された……。殺された、殺されたんだ……。  グルグルと同じ言葉ばかりが頭の中に渦巻いている。胸の奥がズキズキ痛んだ。両目からは涙が延々(えんえん)と流れていた。  叫びだしそうな思いで、僕は布団を(かぶ)った。菫がただただ痛ましく、可哀想でたまらない。  枕がぐっしょり濡れる程泣いても、涙が止まる事はなかった。落ち着くのも無理で、僕はヨロヨロと起き上がった。机に置いた箱を手に取る。ベッドの上で半身を起こし、膝の上に箱を乗せた。緊張でガチガチになりながら(ふた)を開けてみる。  たくさんの記事が見えた。やっぱり現実なんだ……と今更のように衝撃が走った。  嘘であってほしいと、祈るような気持ちで記事を一つ一つ読んだ。でも現実は厳しく、記事は吐き気を(もよお)す内容だった。  事情聴取後、被疑者が容疑を認めたこと。八月十日の夕方、菫を見かけた犯人がコンビニの手前で声を掛けたこと。土手の下の川に猫が落ちたのを見たので、一緒に来て助けてほしいと言って(だま)し、菫を連れて行ったこと……。

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