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第46話

 菫は犯人に絞殺され、死後、凌辱(りょうじょく)までされていた。その部分を読んだ時、僕は吐き気をどうにも我慢出来ず、急いでゴミ箱を手にしてそこに吐いた。胃の中の物を全部出しても治まらない。最後にはうめきながら胃液を吐くしかなかった。  全身がブルブル震えだす。胸がつぶれそうだった。どうして……どうして菫がこんな酷い目に遭わなければならないのか……。  部屋のドアがガチャリと音を立てて開くのと、ベランダ側の窓がドンと鳴ったのがほぼ同時だった。 「桜!?」  ベッドから半身落ちそうになっている僕を見て、母が悲鳴を上げた。鍵をかけていないベランダの窓が開き「桜!」と呼ぶ風吹の声も聞こえた。 「──桜! ああ、やっぱりひとりにするんじゃなかった」  ゴミ箱を抱えてうめく僕の背中を母がさすってくれる。ベランダから部屋に入って来た風吹が、僕と母のすぐ近くにひざまずくのが気配で分かった。 「すみれ……うぅ。……み、れ……っ」  僕は自覚なく菫の名前を呼んでいた。頭の中はどす黒くよどんだ感情がグルグルうずまいている。涙は止まらず、時々胃液をゴミ箱に戻すことしか出来なかった。 「どうしよう……、救急車呼んだ方が……」  母の声に僕は首を横に振った。 「だい……じょぶ。少ししたら治まるから……」  必死で声を出した。喉が焼けて物凄く痛い。吐き気と咳が交互に来る感じだった。 「おばさん、水持ってきてもらえますか?」 「そ、そうね。持ってくる」  風吹の声は落ち着いていた。僕の病状に慣れているはずの母の方が混乱しているように思えた。ただ、それも仕方ないとは思った。さっきまで母も、菫の過去を振り返る必要に迫られていたのだ。気持ちが乱れて当然だろう。  風吹が僕の隣に来て、母の代わりに背中をさすってくれた。僕はどうにか顔を上げて少し風吹から離れた。 「ふ……ぶき。いいよ、大丈夫……。吐いちゃったから、この部屋嫌な臭いするでしょ……? 落ち着いたらまた来てくれれば……」 「何言ってんだ。そんなの全然気になんねぇって。とにかく、治まるまで他のことに気ぃ遣うな」 「ご……め……っ」  僕はまたゴミ箱に顔を伏せた。風吹は黙って背中をさすり続けてくれる。近くにあったティッシュを取って、顔を上げた僕の涙を()いてくれた。  母が部屋へ戻って来た。僕はティッシュで口を(ぬぐ)ってから水を飲んだ。最初上手く()み込めなくて、ゴホゴホとむせてしまった。 「桜、これで顔を()いて」  母が暖かい濡れタオルを渡してくれる。ほんわりと温もりのあるタオルに顔を埋めたら、気持ちが少し和らいだ。ベッドの上には新聞紙とぼろ布を敷いた洗面器を母が置いてくれた。吐くならここに、ということだろう。  それから母はサッサとゴミ箱からビニール袋を外し、吐しゃ物を片づけてくれた。代わりに新しいビニール袋をかぶせたる。窓を開け、空気の入れ替えもしてくれた。熱気のある夏の外気が部屋に入って来て、クーラーの出す冷気とぶつかった。  自分の顔も手も、部屋の空気も綺麗になってようやく僕は落ち着いて来た。風吹は僕のベッドに座って肩を抱き寄せてくれている。僕は風吹の大きな胸元に寄りかかり、しばらく目を閉じていた。 少し落ち着いてから、どうして風吹が来てくれたのか疑問を持った。 「あれ……? 風吹、今日はバイトって言ってなかった……? それにテスト勉強……」  僕が風吹にした質問に答えたのは母だった。 「さっきお母さんが由香里さんに連絡したの。桜が……過去に起こった事件を知ったって伝えたわ。そしたら、きっとつらい思いをするだろうから、風吹を向かわせるって返事があったのよ。ごめんね、風吹くん。バイト中だったのに迷惑掛けて……」 「迷惑だなんて思ってないです。いつか──この時が来たら、俺が全力で支えるつもりでいたので」  風吹の低い声には強い決意が秘められていた。僕は混乱する頭の中で、自分の感情が(つか)みきれないでいた。  風吹の気持ちは感謝している。ただ、僕はずっと仲の良かった風吹から……今では恋人でもある風吹から、何も知らされてこなかった。 風吹は僕を──騙していたことになるのだろうか? 「……ごめんね、迷惑かけて……」  僕が謝ると風吹は僕の頭を更に胸元へ引き寄せた。 「やめろ。謝るのは俺の方だ。俺はずっと……」  風吹は一旦言葉を止めて、母の方を向いた。 「おばさん、少し桜と二人にして貰ってもいいですか?」  母は頷く。 「もちろん、いいわよ。少しと言わずいくらでも。風吹くんが居てくれれば安心だし……。桜をお願いね」  母は僕の部屋から出て静かにドアを閉めた。 「ずっと……騙すような事をしてきて悪かった」  風吹は両腕で僕を抱きしめ、低く絞り出すような声で言った。その声は苦悶(くもん)に満ちていた。必要に迫られたとは言え、僕を騙し続けて来たことを心から悪いと思っていることが感じられた。

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