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第51話
一階へ降りようとした時、スマホの通知が鳴った。メッセージを受けた音。僕はスマホを確認した。
拓先生からの連絡だった。このタイミングだったので、僕は必要以上に緊張した。震える指先でポップアップをずらす。すぐに開いて既読を付けたくなかった。
『おはよう、桜くん。昨日は久しぶりに会えて嬉しかったよ。近々どこかで話せないかな?』
拓先生からのお誘いの言葉に、思わず唾をごくんと飲み込んだ。僕は最初、風吹の頼み通り拓先生と会うのは避けようと思った。でも……やはり菫の事件の事を訊いてみたいという思いが強かった。
マツウラソウヤ、という犯人が拓先生と関係なかったとしたら──あの当時大学生だった拓先生はかなり詳しく事件の事を覚えているだろう。
母には直接訊きにくいが、どんな風に報道されたのか、新聞や週刊誌、そして地元の人たちの間でどのくらい話題になったのか……僕はそれが知りたかった。
『連絡ありがとうございます。僕も会って話したいです。都合の良い日を教えて下さい』
僕は拓先生に返事をした。風吹には言わない。言ったら止められるし、もしかしたら一緒に行くと言うかもしれない。風吹の態度を見ると拓先生の事を良く思ってはなさそうだし、一緒に行ったら上手く話を聴けなくなる可能性が高い。
僕はメッセージを送ってから一階へ降りた。母は目の下がくまっぽく黒ずんで見えたが、一晩寝たせいかテキパキと家事を進めていた。
僕はあまり食欲も無いまま、母が作ってくれたわかめの味噌汁と白米で朝食を取った。無理にでも食べないと、この後勉強しても頭が回らなくなりそうだ。僕はご飯をなんとか噛み砕いて飲み込んだ。
それから勉強するために自分の部屋に戻った。携帯を見ると拓先生から返信が来ていた。僕はポップアップから見える部分だけ内容を確認した。
『急だけど明日あたりでどうかな? 試験前で勉強が忙しいと思うけど息抜きに』
明日……。
どうしよう。明日は日曜日だ。風吹はテスト前でバイトを入れていないだろうし、あの様子だと明日もずっと僕のそばに居てくれるつもりだろう。
それがありがたいと思う気持ちと、少しは自分だけで考えて行動したいという気持ちがぶつかりあう。
躊躇 いつつスマホをボーッと眺めていたら、ガタ、とベランダ側の窓が揺れた。風吹がまたこっちに来てくれたみたいだ。
ガラッという音を立てて窓が開いた。「桜、大丈夫か?」と言いながら風吹が入ってきた。服は着替えて、大き目のリュックを背負っている。おそらく勉強道具を入れてきたのだろう。
「うん、大丈夫。少しだけどご飯も食べたよ」
僕が答えると、風吹は安堵の緩い笑みを浮かべた。いつも僕の心配をしてくれる風吹が愛おしい。
僕はスマホを机に置いた。拓先生への返事は後からしよう。少しの迷いはあるものの、僕は拓先生に会って事件の話を訊く決心を固めていた。
分厚い教科書と勉強用のノートを座卓の上に置く。風吹はリュックからノートとペンケースを取り出した。
僕達はニ時間くらい集中して勉強した。風吹は暗算も得意だし、公式を覚えた後、自分なりに工夫して時短で正解を導くのが上手い。
僕は不器用だから、一つ一つの問題を繰り返し地道に解くしかなかった。他のやり方をしようとしても、結局途中で分からなくなってしまう。何度も繰り返してから、やっと覚えられる。要するに頭が悪いんだろう。
「半分くらいは終わったかな。ちょっと休むか」
うん、と僕はうなずいた。寝不足の頭に沢山の問題と回答を叩き込んだ状態なので、かなり疲れてしまった。
風吹は立ち上がり、僕のベッドに腰掛けた。そして僕に向かって手を伸ばしてくる。
どうやら膝に乗れということらしい。僕の頬にカッと血が昇る。疲れていても風吹と触れ合うことで僕には精気が戻る気がする。
僕は促 されるままに風吹の膝の上に腰掛けた。風吹は僕の背中と膝の下に腕を回し、グイッと持ち上げて自分の方へ引き寄せる。僕は風吹の首元へ腕を回そうとして、急に目眩がしたような感覚になった。
それは記憶の奥から突然湧き上がってきた。以前……それもかなり前に、こうして誰かの膝の上に乗ったことがある気がする。
それは奇妙な感覚だった。昔の思い出を懐かしく感じるというより、なんとなく頭のどこかで思い出すのを拒んでいる感じだ。僕自身が思い出すのを避けているような……。
子供が大人の膝に乗せてもらうのは親や祖父母、幼稚園の先生などだろう。でもその嫌な記憶は親族や恩師ではない──と思う。親しいひとならば、あまりにも当たり前過ぎてわざわざ思い出したという感覚にはならないはずだからだ。
風吹が僕の頭を大きな手で抱えてくる。僕は風吹の肩に頭を乗せて寄りかかり、ギュッと目を閉じた。
ふいに甘い香りがした気がした。これも記憶の底から湧き立ってきた香り。苺の匂い……。
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