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第54話
拓先生はひと息つくと、自分の買ってきた飲み物に口をつけた。
「それを君に言ったところで、どうしようもないと分かっている。でも言い訳でもいいから君には伝えたかったんだ。義弟 のしたことは最悪の犯罪だ。許される事じゃないって」
拓先生は苦渋の表情をうかべていた。本当に悔やんでいるのが分かる。僕は言葉を発することができなかった。心の負荷が大き過ぎて、声が喉に詰まっている。何より、何を言ったらいいのかも分からなかった。
拓先生は長いまつ毛をしばたたかせて潤 んだ瞳を伏せ、もう一度深く頭を下げた。
「本当に……すまない」
僕はしばし呆然と拓先生の頭を眺めた。自分は癖毛だけど、拓先生の髪はサラサラだな、と至極 どうでもいい事が頭をかすめた。
それでも、ずっと頭を下げている拓先生を目の前にして、何も言わない訳にはいかないと分かっていた。僕はどうにか今言えることを声に出して伝えた。
「……もちろん、先生の義弟 さんがやったことは、許されることではないです。でも事件が先生の責任かというと、違うんじゃないかな、とも思います……」
あいまいな言い方しかできない。愛らしい菫の顔が頭に浮かぶ。
僕の言葉を聞いて、先生はゆっくり顔を上げた。眉は寄せていたものの、表情はホッとしたようにゆるんでいた。
「そう言ってもらえてありがたいよ。母は事件の後、再婚相手と別れているから今では他人なのだけれど、一時 でもあいつと義兄弟だった事実は消えない。だからどうしても謝りたかったんだ」
「──はい。わかり……ました」
拓先生はふぅーっと大きく息を吐く。
「良かった。僕は君に……君だけには解ってほしかったんだ」
「どうしてそんな……」
「それは君が僕の教え子であって、幼かった君は僕にとって特別な存在でもあるからだよ。……ああ、もちろん、他の生徒さんもみんな同じように大切だけどね」
拓先生は少し顔を近づけて僕の目を見る。
「償 いになるか分からないけど、これからも君のことを見守って行きたいんだ。何か困ったことがあれば遠慮なく僕に相談してほしい」
拓先生の目は真剣そのものだった。僕のことを気遣ってくれるのも本当だと思えた。事件後ずっと、拓先生もつらい思いをしてきただろう。自分が犯罪を起こした訳でもないのに、犯罪加害者家族は奇異の目で見られると聞いたことがある。拓先生にはまた、被害者側とは違う苦労があったのだろうと思った。
「ありがとうございます。そこまで心配していただいて……」
拓先生は大きく首を横に振る。
「お礼なんて必要ないよ。あと、拓先生とも呼ばなくていい。学部の専攻が違うからもう君に教えられることは何もないし……。だから先生と呼んでもらう資格はないよ。単に拓巳か拓でいいから」
拓先生の親しみのこもった笑みは忖度 なしで綺麗だった。義理の弟が犯した罪を謝るために、ずっと僕を気にかけ探し続けてくれていたのも誠実だと感じられた。
「……分かりました。では拓さんと呼ばせていただきますね。色々……訊きたいこともあるんですが、今日はまだ試験勉強が残ってるので帰ります」
「もちろん、これからも何でも訊いてくれ。試験も頑張って。応援してるよ」
拓先生……改め拓さんは心から安心したという顔をした。僕達は氷が溶け始めた飲み物を飲み干し、カフェを後にした。
帰りの道すがら、一歩一歩足を進めるごとに衝撃の事実が振動となって僕の胸に響いた。風吹の予想が当たった訳だが〝そうかもしれない〟と想像することと、実際に〝そうだ〟と知ることには大きな差があると実感した。
拓さんは憎き犯人の家族だった──。でも拓さん自身は犯罪とは関係ない。全くないとは言えないかもしれないけど、闇雲に拓さんを恨んで関係を断つのも違う気がする。
それに──もしかしたらマツウラソウヤが出所する時期や、その後どんな生活をするのかも、拓さんから聞けるかもしれない。
そろそろ出所するだろうという犯人。そいつが何食わぬ顔で普通に生活していたら僕は……。
僕は──
どうするだろう? 家に帰り着くまでに、その答えにたどり着くことは出来なかった。
帰宅したら、風吹はあからさまにホッとした顔をした。「ただいま」と言うと立ち上がって僕を抱きしめる。僕も風吹の筋肉質な背中に腕を回して抱きしめた。
僕は風吹に寄りかかる。拓さんから聞いたことを話そうと思いながらも、口に出せないでいた。
そのうち……伝えよう。風吹に話せば少なからず動揺するだろう。今は試験に集中する時だ。僕たちの関係を風吹のお父さんに少しでも理解してもらうためにも、良い成績を取らなくては──。
風吹は僕の顎を指でつまむと上を向かせる。僕たちは甘く、熱いキスを交わした。風吹はひと通り僕の口の中を探索したあと「……んー……?」と声を出した。
「コーヒーの味がする」
唇を軽く触れ合わせたまま風吹が言う。鋭い。さっきちゃんと手洗いうがいをしたけど、カフェオレの味を落としきることは出来なかったみたいだ。風吹は勘が良いからわずかな残り香を感じ取ったのだろう。
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