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第56話

「葵くん、こんにちは」  とりあえずごく当たり前の挨拶で声をかけた。葵くんはぼんやりとした視線をゆっくりこちらに向ける。 「あ……、えっと、桜……だよね?」 「うん。覚えててくれたんだ」  葵くんはゆるゆると(うなず)いた。 「覚え……てるよ。オレひとの顔覚えるのは得意なんだ。でもオレ……バカだからさ……」  葵くんは目をうるわせて視線を下に落とした。愛らしい顔で泣きそうになっている姿を見て、僕はギュッと胸が締め付けられるような気持ちになった。 「バカだなんて、そんな……。ひとの顔覚えるの得意って凄いと思うよ。僕はなかなか顔と名前が一致しないから」  葵くんは顔を上げて僕を見返し下唇を噛んだ。 「そうかな。そんなの大した特技じゃないよ。オレ、ここの大学入りたいって思ってたけど、成績全然足りなくてさ。拓もいるから絶対ここ来たかったのに……」  葵くんの目から一粒、涙がこぼれた。初めて会った時は明るい印象だったのに、今日はひどく落ち込んでいるようだ。僕はハラハラして、何とか(なぐさ)めようとした。 「で、でもまだ夏だし……今から頑張って来年三月に試験受ければいいんじゃないかな。僕も成績ギリギリだったけど、どうにか受かったから……」  言ってから、すでに入学しているヤツから言われても嫌味にしか聞こえないかな……と不安になった。でも葵くんは大きな目を見開いている。(うつ)ろだった瞳に少し精気が戻ったように見える。 「……そっか。そうだよね。今からでも頑張ってみる。ありがと、桜」  葵くんは微笑んでくれたものの、顔色はとても悪かった。今日は拓さんに会いに来たの?  と訊こうとしたところで葵くんはしゃがみこんだ。  僕は驚いて葵くんの隣にしゃがんで顔を(のぞ)いた。唇が紫色になって微かに震えている。僕は葵くんの背中に手を当てた。細い身体から小刻みな振動が手に伝わった。 「……葵くん、どんな風に気分が悪い? 風邪ひいてる?」  葵くんはゆっくり首を横に振った。葵くんの背中から夏の外気とは違う熱さが感じられた。高い熱があるのかもしれない。 「桜? どうかしたのか、そいつ」  足音と共に風吹の声が聴こえてきた。僕は顔を上げた。強い陽射しを受けて銀の髪を輝かせながら風吹が歩いてくる。 「葵くん、熱があるみたいなんだ。どうしよう。医務室開いてないよね?」 「夏休みだし無理だな。かなり悪そうか?」  風吹もしゃがんで葵くんの様子を見た。葵くんは少しだけ顔を上げたものの、ぼんやりした目は焦点(しょうてん)を結ばなかった。そしてまたつらそうに下を向いてしまう。 「救急車呼ぶか」  風吹の問いに葵くんはまた首を振って「やめて……」と言った。 「仕方ねぇな。医者に連れてくか。おい、かつぐから少しは立てるか?」  風吹が葵くんの肩に手をかける。「医者も……だめ……」と葵くんが絞り出すようにか細い声で言った。 「ンなこと言ってる場合じゃねぇだろ。桜、時任(ときとう)さんに事情話しといてくれ。そんで出来ればお前も来て欲しい。着替えて俺のリュックも持って来てくれ」 「あ、うん。分かった」  テキパキと指示を出し、風吹は葵くんを背中に(かつ)ぎ上げた。葵くんは何かうめき声みたいなのを上げたけど、風吹の背中に背負われてからはグッタリして目を閉じた。  風吹は道着姿のまま正門に向かって歩いていく。学校の正門を抜けてすぐの場所に小さな開業医があるので、そこへ向かうようだ。  僕は時任さんに事情を話してから大急ぎで道着を脱いで私服に着替えた。部員達に挨拶しながら道場の出口に向かう。大きな大会も終わったし、みんなはのんびりしていた。去り際に桃ちゃんが心配そうに手を振ってくれた。  僕は急いで病院へ向かった。九月も後半になるのに陽射しはまだまだ強かった。風吹の大きなリュックを抱えているのもあって、汗が滴り落ちる。  僕は病院のドアを開けた。クーラーの涼しい風が吹きつけてくる。一気に体感温度が下がってホッとした。病院はまだ午後の診察が始まったばかりだったが、待合室には七、八人の患者さんが待っていた。  その中にもちろん風吹もいた。銀の髪だけでも目を引くが、道着を着ているせいか一際(ひときわ)目立つ存在になっている。風吹の隣には中年の男性が座っていて、意外にも風吹はその人と言葉を交わしていた。  僕は受付けの人に葵くんの友人ですと告げようとした。でもそこで葵くんの苗字を知らないことに気が付いた。僕が「あの……さっき(かつ)がれてきた子の……」というと受付けのお姉さんはパッと明るい顔になり、カウンターの向こう側で立ち上がった。 「お友達はあちらでお待ちです」とお姉さんは言い、ウキウキした様子で手を伸ばして風吹を示す。明らかに頬を赤らめていた。ここでも風吹はモテている。

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