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1年生の5月のこと

「君、大丈夫か?」  顔を上げると黒い瞳と目が合った。  フルフルと首を横に振り、胸に抱えた膝をさらにギュッと引き寄せる。  その男性は着ていた作業着の上着を脱ぐと、美己男(みきお)の肩にかけた。 「それ着て、前を閉めて。ついて来て。」  震える足で立ち上がると上着に手を通して前を閉める。 「一年生?」  そう聞かれてコクリと頷いた。 「組と名前を教えて。」 「三組、尾縣美己男(おがたみきお)です。」  トボトボと男の後ろをついて行く。    尾縣美己男が全寮制のこの中学校に入学してから約1か月が過ぎた。  校則が厳しくて有名なこの男子校は学校であると同時に半ば矯正施設のようなところで、 全国から問題のある男子生徒たちが集まってくる。  華奢で綺麗な顔をした美己男は、入学当時からその風貌で注目を集めていた。  入学時には全員、丸坊主にしなくてはならない決まりなのだが、それが却って無防備で 頼りない印象を引き立たせてしまい、入学してまだ1か月だというのに、すでに周りが 騒がしい。  明らかに美己男を見に教室に来たり、ジロジロと品定めするように見られたり、やたらと 声をかけられたりと、居心地悪いことこの上ない。  今日は初めて体に直接接触された。  授業が始まる直前、上級生に呼び止められ、校舎から連れ出されたところで腹を殴られた。   倒れてしまった上にのしかかられたのを滅茶苦茶に暴れてなんとか逃げ出し、別の校舎の 影に隠れていたのだ。  男の背中を見上げると、真っすぐの黒い髪が目に入った。    あー、寛ちゃんの髪と一緒だ  幼馴染の寛太朗(かんたろう)の事を思い出し、涙が出そうになる。  授業が始まってしまった校舎はシンとして静かだ。  グラウンドからの号令が遠くに聞こえて、まるで何もなかったかのように平和な空気が 流れている。  男は作業棟と呼ばれる棟に入り技術室の部屋のドアをガラリと開けた。 「ここにいて。怖かったら中から鍵閉めていいから。」  男はそう言うと、パチパチと電気を点けて出て行った。  美己男はガランとした教室の窓際の席に座って、上着を脱いだ。  大きな窓から明るい日差しが入ってきていて、席が温まっている。  座るとお尻がじんわりと温かくて美己男はホッとした。  制服のシャツはボタンが取れているが破けてはいないようだ。    後でボタン、自分でつけなくちゃ  美己男はぼんやりと考えた。  コンコンとドアをノックする音が聞こえて先ほどの男がフルーツオーレとコーヒー牛乳の パックを手に入って来た。 「どっち?」  と聞かれてフルーツオーレを指さす。 「ありがとうございます。」  美己男は反射的にニコ、と笑って男を見上げた。 「君、そんな状況でよく笑えるね。」  男はニコリともせず言う。 「え?」  美己男は意味が分からず聞き返した。 「君、分かってないの?その笑顔が周りを(あお)ってこういう状況生み出してしまうこと。」 「あのう、どういう意味ですか?俺、頭悪くて、意味が良く分からない・・。」    怒られてるのかな、これ。  美己男はオロオロと言った。 「ごめんなさい。あの、もう授業に行かないと。これ、ありがとうございました。」  美己男は居心地が悪くなってきて、急いで脱いだ上着を返した。  男は驚いたように目を見開くと 「マジで気が付いてないのかよ。」 と呟く。  黒い瞳がまた寛太朗を思い出させる。    やっぱり寛ちゃんと似てる 「大丈夫、次の授業、君は行かなくてもいいです。」  そう言うと男はコーヒー牛乳にプスとストローを刺して少し離れたところに座った。 「技術指導教諭の大我馨(おおがかおる)です。その恰好では授業に出られないでしょう? 担任の先生に事情を話して、次の授業は欠席にしてもらいました。」 「技術の先生?」  黒い髪、黒い瞳。  素っ気ない態度は教諭というには若い雰囲気でまるでアルバイトの大学生のようだ。      大学生になった寛ちゃんみたい 「Tシャツ貸すから、それに着替えて。いつまでもその恰好じゃあ、俺が襲ったみたいで 気分が悪い。」  大我は奥からTシャツを持ってきて美己男に差し出す。 「あ、ありがとうございます。」  えへへ、と笑って受け取った。 「君さぁ、そうやって、すぐ可愛く笑ったりしないほうがいいよ。」  また大我に冷たく言われて美己男はビクリとした。 「え?」  ボタンの取れたシャツを脱いで借りたTシャツを着ると美己男はフルーツオーレに ストローを刺した。 「あの、別にそんなつもり、ないです。」  美己男は大我に言う。 「わかるけど、そういう無意識が周りを煽っちゃうってことも理解したほうがいい。 綺麗な顔してえくぼ見せて笑いかけたら、誘われたって勘違いする奴もいるってこと。」 「・・はい。」  小さい声で返事をしてうなだれる。  美己男は小さい頃からなぜか周りを苛立たせてしまう。  最初はみな、可愛い可愛い、と言って寄って来る。  美己男はそう言われるとすぐに嬉しくなって笑ってしまう。    たくさん話して、たくさん遊びたい    好きになってもらいたい  なのにいつの間にか、鬱陶しがられたり、嫌われたり、いじめられたりするようになって しまうのだ。  一番好きになってもらいたかった母親ですらそうだった。  昨日は可愛い可愛いと抱きしめてくれたのに、今日は顔も見たくない、とののしられ部屋を追い出されたり、何日も置いていかれたりした。  実の母親ですらそうなのに、他人からはなおさらだ。  その度に美己男の頭は混乱してしまう。      何で?    どうして?    それを考え始めると頭がぐちゃぐちゃになってどうしていいかわからなくなる。      寛ちゃんがいてくれたらいいのに    寛太朗のことを思ってまた涙が出そうになった。    幼馴染の藍田寛太朗(あいだかんたろう)とは『母親と子供の保護施設』で出会った。  小学校4年生の時に美己男と母親の知愛子(ちあこ)は施設に入居した。  寛太朗は同級生だったが一年前から施設に入居しており、色々と教えてくれて面倒を見て くれたのだ。    艶々の黒髪と漆黒の瞳をした寛太朗は同じ年とは思えぬほど、頭の良い大人びた少年で、 いつも美己男の前を走っていた。  美己男はその姿に圧倒され、憧れた。  怖いものだらけの美己男は寛太朗の後ろを始終ついて回り、母親がいない夜は寛太朗の ベッドに潜り込んで眠った。    寛ちゃんと一緒にいたかったな 「それで、乱暴された?」  大我に聞かれ、美己男はハッとした。 「あ、・・はい。」 「それは、暴力的なこと?性的なこと?」    暴力的?性的?    性的って・・、もしかしてその後、ヤラれそうだったってことかな・・    こんな昼間に?学校で? 「ええと、分かりません。」 「分からないって、君。ほんとに大丈夫?」  大我が呆れて言う。 「殴られた?」 「はい。それで強く押さえつけられて。」 「じゃあ、キスされたり、体触られたりは?」 「そういうのはされてないです。ボタン引きちぎられただけ。」 「だけって・・。それで?」 「それで、殴って逃げました。」 「え?殴ったの?君が?相手を?」 「はい。持ってた携帯で頭とか、顔とか。」 「へぇ・・。やるね。」  大我は美己男を見ると口元を手で押さえて少し笑った。 「メチャクチャ殴ったから携帯の画面、割れちゃって。」 とポケットから画面がバキバキに割れた携帯を取り出して見せる。  堪え切れずに大我が笑い出した。 「すげえな、バッキバキ。」  大我が砕けた口調になる。    あー、話し方もちょっと寛ちゃんに似てる 「そう、頑張ったね。」  大我が立ち上がった。 「でも、尾縣君、体も小さいし、顔が抜群に綺麗だからね。これからも狙われるよ。 大丈夫?」  そう言われて、美己男はうつむいた。 「やだ。怖い。」 「だろうね。」  美己男は堪え切れずについに、うー、と泣き出した。  大我のため息が聞こえた。 「今までよくそれでやってこれたね。小学校とかでいじめられなかった? 何でこんな学校来たの。」  大我にティッシュの箱を押し付けられる。 「4年生からは寛ちゃんがずっと一緒にいてくれたから。でも、母さんがここに入れって。 だから別々の中学校になっちゃって・・。」 「そう、守ってくれる人がいたんだ。」  大我の言葉にコクリと頷く。 「同級生?」 「はい。寛ちゃん、藍田寛太朗。」 「ふーん。カンタロウ君。」  ティッシュで鼻を押さえる美己男の前で大我がやれやれ、といった様子でまた、ため息を 付く。 「まぁ、じゃあ、次、危なくなったらここに来て下さい。そのカンちゃん?ほどは頼りに ならないかもだけど、(かくま)うぐらいならできるから。」  大我はそう言った。  美己男はグビ、と喉を鳴らして顔を上げた。 「え?」  美己男が理解できていないと思ったのか、もう一度ゆっくりと小さな子供に言い聞かせる ように言う。 「危なくなったら、ここに逃げてきて。分かった?」  ポケットから鍵のついたキーホルダーを取り出すと、美己男の手に乗せる。 「隣の準備室の鍵。中から鍵閉めちゃえば俺以外は誰も入って来られないから。 廊下側と技術室側にドアがあって、これは廊下側の鍵。 ここで授業してても準備室で隠れてればいいし。それ、絶対、失くさないでね。 必要なくなったら返して。さぼりには使うなよ。誰かを連れ込むのも無しな。」 「・・はい。ありがとうございます。」  美己男はぽわんとした顔で大我を見た。    ヤバくなったら逃げてくればいいじゃん  寛太朗の言葉を思い出す。      あの先生、もしかして未来から来た寛ちゃんかな?  美己男は鍵を握りしめ、フワフワとした気持ちで寮に戻った。

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