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1年生の6月のこと

    無い・・  美己男(みきお)は机の引き出しに入れてあった赤いガムボールを必死で探した。       どうせなら持ち歩いておけば良かった  教諭に見つかれば没収の上、懲罰ものだが、盗まれるよりはましだったかもしれない。  激しく後悔するがもう遅い。  寮は一部屋を二人で使用する作りになっており、部屋に鍵はかかるが授業が終わって寮に 戻ってからの自由時間には、どの部屋も開けっ放しだ。  その時なら誰でもいつでも入って来ることができる。  貴重品は自己管理が基本で、各部屋に貴重品入れも備わっているが、盗難届が提出された 場合には全部屋の徹底的な捜索が行われるので、そういった事態になるまでのことはほとんどない。  美己男にとっては大事な思い出のある赤いガムボールだったが、駄菓子一つのことで盗難届を出すわけにもいかず、落ち込んだ。 「尾縣(おがた)君、晩飯の時間。」 「うん、わかった。」  ルームメイトの小田に声をかけられて、ノロノロと食堂に向かう。 「見つかった?」  心配そうに聞いて来る小田に首を横に振る。  食事は全校生徒が一斉に食堂に集まる。  開始時刻と終了時刻が決められており、基本、終了するまで食堂を出ることは許されない。  各々の食事が済むと、ザワザワと食堂のざわめきも大きくなる。  美己男は落ち込んだまま、ボソボソと夕食を食べた。  隣のテーブルでは同じクラスの3人組が大声で下らない話をしている。  そのうちの一人、高良田(たからだ)という体が大きく粗暴な生徒がいつも何かと絡んできて美己男は不快な思いをしていた。  高良田は二人の取り巻きをいつも引き連れていてクラスでも煙たがられており、今も取り巻きと大声で話しながらチラチラと美己男の方を見ている。      またか  美己男はいつものことながら今日はことさら嫌な気分で高良田を無視して食事を続けた。 「ガム欲しい人ー。」  高良田がわざとらしくひときわ大きな声で言った。  その声に美己男はピクリと反応した。 「はーい。」 「はーい。」  取り巻き達が手を挙げる。  思うつぼだとわかっていても、思わずそちらに視線を向けてしまう。  高良田は美己男の注意が自分に向いたのを確認したかのようにニヤリと笑って 「残念、一個しかねぇ。」 と、赤いガムボールの袋を破って高く投げ上げ、あーんと口を開けた。    あれは、俺の  赤いボールは一瞬のうちに高良田の口の中にストンと落ちて美己男の視界から消えた。  クチャクチャとわざとらしくガムを噛むおぞましい音が聞こえる。  その瞬間、美己男の頭は真っ白になって血が沸騰したかのように体が熱くなった。  視界が狭くなり高良田しか見えなくなる。  テーブルを乗り越え、周りの食器を蹴散らして、高良田に飛びかかった。  そのままの勢いで床に押し倒し、馬乗りになる。  突然の出来事に周りが一瞬、シンとした。 「うわぁ、尾縣君っ。」  小田の叫び声でテーブルの周りが騒然となった。  美己男は床に散らばったトレイを手に掴むと力任せに高良田の頭を殴った。 「返せっ、俺のガムボールっ。出せよっ、汚らしいっ。」  美己男は喚いた。  滅茶苦茶に殴りつけ、口の中に手を突っ込む。 「尾縣君っ。」  小田が悲痛な叫び声を上げるが、美己男には届いていない。  ひたすら口の中のガムを取り返そうとした。  ガブリと思い切り口の中に入れた指を噛まれるがお構いなしに手を突っ込んだ。  一瞬、美己男の剣幕に驚いて倒れた高良田がすぐさま美己男の手首を掴み、もう片方の手で美己男の細い首を掴むとグイグイと締める。  圧倒的に体の大きな高良田はあっさりと美己男の体をひっくり返し、今度は自分が馬乗りになった。 「殺すぞっ、クソチビっ。」  体重をかけて首を絞められ、美己男は息ができなくなった。  んがっ、と喉が鳴る。 「高良田っ、もうヤメろって。そいつ死んじゃうぞっ。」  美己男の耳がキーンと鳴って目の前が暗くなってくる。 「こらぁー、お前ら、何しとんじゃぁ。」  教諭の怒鳴り声とともにようやく美己男の首にかかっていた手が離れた。  美己男はガハッとうつ伏せになって息を吸おうとあがいた。  ゲボゲボと食べたものを吐き出す。 「誰かぁ、担架。みんな下がれぇ。」  教諭の声が聞こえてきてぼんやりと視界が戻ってくる。  横を見ると高良田が教諭に二人がかりで床に押さえつけられていた。 「尾縣ぁ、聞こえるかぁ?」  水の中にいるように教諭の声が遠くに聞こえ、美己男は小さく頷きゲホゲホと咳き込んだ。 「意識はあるな。」  そのまま担架に乗せられて、救急病院まで運ばれた。  検査結果は大したことはなかったが、色の白い美己男の首には痛々しいあざが残り、 思い切り噛まれた指は腫れて何日か使いものになりそうもなかった。  一晩、入院して学校に戻ると、美己男の全校生徒の前で起こした大立ち回りは学校中の噂になっていた。  相手の高良田は美己男があれほど力一杯殴ったわりには、少し額を切った程度でたいした 怪我にはならなかった。  正当防衛というにはあまりにも過剰な反撃と、駄菓子一個とはいえ、盗難があったことが 暴行の発端であったことが認められ、1か月の隔離、という厳しい処罰が下った。  美己男のほうは先に手を出したことは咎められたが明らかに美己男のほうが重症を負って いたため、3日間の隔離という名目の療養で済んだ。  見た目の美しさで目立っていた美己男だったがこの大立ち回りのせいでさらに注目を集めることになってしまい、噂は隔離が明けて数日経ってもなかなか収まらなかった。  クラスでも寮でも、好奇の目に晒され美己男は堪らず技術準備室に逃げ込んだ。  放課後の作業棟は誰もおらず、静かだ。  大我(おおが)もいない。  一人になって美己男はホッとした。  鍵をもらってから何度かこの部屋に逃げ込んだが、今日のようにゆっくりと見たことは なかった。  薄暗い準備室の端に座り込み、ぼんやりと部屋を見渡す。  棚にはたくさんの工具が収納されている。  はさみやカッター、ペンチやレンチなどの小さな工具から、電動のこぎりやサンダーなどの電気工具も揃っている。  どれも綺麗に整頓され収納されていて、あるべきところにきちんと収まっており心地が良い。  工具だけでなく、材料が積んである棚や模型などが飾られているガラス扉つきの棚まで全てが整然と並んでいた。  たくさんの図面や、教科書、資料や、雑誌の類もきちんと並べてぎっしりと書架に詰め 込まれている。  その中にひときわ美しい装丁の写真集がいくつか並んでいた。  美己男は立ち上がって写真集の並んでいる棚を覗き込んだ。 「ま、ほろ、くにつか」  外国の写真集だろうか、英字の表記の表紙の名前を読む。 「くにつか、まほろ?日本人?」  どの写真集も同じ人物の名前が書いてある。  一冊を手に取ると、パラパラとページをめくった。      建物?建築家かな?  美しい流線型をした建築物の写真が、燦燦と降り注ぐ光に照らされていたり、夜空の中、 ライトに照らされていたりしていた。 赤紫色の夕暮れの空をバックにその美しい流線型の形が黒いシルエットになって浮かび 上がっている写真がひときわ美しく、美己男の目を引く。  最後のほうに建築家本人らしき人物の写真も載っていた。    へぇ、かっこいい  思っていたよりも若い40代くらいの日本人だ。    大我先生、この人の建築、好きなのかな  美己男は写真集を棚に戻した。  他の写真集を手に取ろうとした時、廊下を歩いてくる足音が近づいてくるのが聞こえた。    あ、大我先生だ  美己男は急いで準備室の廊下側のドアを開け、顔を出した。 「せんせっ。」  驚いた様子で大我が立ち止り美己男を見た。 「お、尾縣っ。」  美己男の姿を見て口元を緩める。  大我が鍵を開けて技術室に入ったのを見て、美己男も準備室に顔を引っ込め、技術室の方の扉から教室に入った。 「尾縣、こないだ食堂で大暴れしたらしいな。」  大我がなぜか嬉しそうに聞いてくる。 「やっぱ、先生も知ってるんだ。」 「おお。ここ何日か、職員室でもお前の噂でもちきりだからな。」  そう言いながらも美己男の首の包帯を見て顔を顰めた。 「えらい武勇伝だけど、ひどい有様だな。大丈夫なのか?」 「うん、平気。痛みはもうないから。」  美己男はニコと笑顔を向けた。 「ならいいけど。にしても、無茶するなぁ。相手、あのでかい奴だろ?もっとひどい目に あってたかもしんないのに。尾縣って臆病そうなのにキレると容赦ないよな。」  美己男が何度かここに逃げ込むうちにお互いの口調はすっかり砕けた調子になっている。 「だってさ。」  美己男は口を尖らせた。 「尾縣から殴りかかったって聞いたけど?何、何かあったの?」  大我が大量のプリント用紙を机の上に並べる。 「せっかくだし、ちょっと、手伝って。」  大我は美己男を手招きした。 「えー?やだ。せっかくの意味、わかんないし。」  そう言いながらも大我の横に座る。 「これ、一枚づつ取って、最後にホッチキスで止めて。後でフルーツオーレ、奢ってやるからさ。」 「アイスがいい。」 「うん、アイスな。」  二人で並んで、プリント用紙を手繰りながらパチリ、パチリとホッチキスで止める。 「で、何?何があったって?」  大我が待ちきれない様子で聞く。 「高良田、めっちゃ殴ったのに、全然、ダメージなくって。逆に首絞められて、死ぬかと 思った。」  大我がうんうんと頷く。 「生活指導の先生が言ってた。喉潰されなくって良かったってよ。尾縣の首、細いもんなぁ。指も噛まれたんだろ?あ、悪い、作業させちゃって。」  今更ながら、大我が言う。 「え?今頃?おそっ。」 「何で指なんか噛まれるわけ?そんなとこ噛むか?普通。」  大我がチラリと美己男を見た。 「俺が高良田の口に手、突っ込んだから噛まれた。」  大我が吹き出す。 「尾縣って、マジでおもしれぇ。何、殴ってもダメージなくて口に手、突っ込んだの?」 「違うよ。俺の大事にしてたガム、高良田が盗んで食っちゃったからっ。」  美己男はムキになって言った。  大我が驚いて手を止め美己男を見た。 「え?ガム?」 「うん。」  大我が爆笑した。 「え?え?そんで、ガム、口から取り返そうとして手、突っ込んだの?取り返してどうする つもりだったんだよ。尾縣、食うのか?それ。」  大我がアハッ、アハッと笑いながら聞いた。 「食わないけどっ。でも嫌だったんだもん、あいつがクチャクチャ言わせながら俺のガム ボール食うの見てたら、(きたな)らしいって、思って・・。」 「えー?汚らしい?何それ。」 「何か、わかんないけど、やだって思ってっ。」  クチャクチャという音と高井田のニヤリと笑った顔が蘇ってきて、美己男の頭はまたぼぅっとなりドキドキと体が熱くなってくる。  大我が美己男の顔を見た。 「けど?わかんなくても、言葉にしてみな。でないといつまでも自分の感情、コントロール できないままだよ。」  大我に促されて美己男はなんとか言葉を押し出す。 「あれは。」 「うん。」  「あのガムボールは、(かん)ちゃんとの初めての冒険でっ。」  美己男の喉の奥に熱い塊がせり上がってくる。 「うん、どんな?」  パサリと紙を手繰(たぐ)る音とパチリとホッチキスを止める音に大我の声が重なる。  「あの日、俺、母さんにコンビニに置いてかれて。泣きながら寛ちゃんとこに戻ったら、 そしたら寛ちゃんが市場行くぞって。暗い市場の中を寛ちゃんが走って行くから。 俺、暗いとこ怖かったけど、寛ちゃん追っかけて。あっという間にトンネル抜けて、光の中、飛び出して。」  美己男の目からボタボタと涙が零れた。 「うん。」  大我が静かに隣で聞いている。 「最後に駄菓子屋でアイス買って、一本を半分こな、って。そしたらおばあちゃんがガム ボールくれたんだ、俺たちに一個づつ。寛ちゃん、赤いの迷わず選んで。俺は選べなくて。 寛ちゃんが早く早くってせかすから、同じ赤いの選んだ。」  美己男は(こぶし)で頬を(ぬぐ)った。 「その時のガムボールはもったいなかったけど、すぐに食べちゃったから。 ここ来る前にあの駄菓子屋で同じの買ってこっそり持ってきてたんだ、一個だけ。」  美己男の喉がグビ、と鳴る。 「そっか、笑って悪かった。そりゃ、ムカつくわ、高良田なんかに(けが)されたら。 偉いな、尾縣。大事なもんの為にちゃんと全力で戦ったな。」  大我が美己男の小さな坊主頭に手を置いてサリサリと親指で撫でた。 「かっこいいな、カンちゃん。」 「うん。」 「じゃあ、カンちゃんのところに尾縣を無傷で返さないとな。」  大我は出来上がった山積みの資料をまとめると立ち上がった。 「んじゃ、アイス、とガムボールつけてやるよ、手伝ってくれたお礼に。」 「え?マジで?やった。」  美己男は笑って顔を上げた。 「ガムボール、売ってんの?学校前の店?」 「知らん。」 「え?なんだよっ、知らんのに言ったの?ヒドイ。」  あはは、と笑う大我の背中を美己男はせかすようにグイグイと押した。

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