3 / 9

中学1年 6月のこと

   無い・・  美己男(みきお)は机の引き出しに入れてあった赤いガムボールを必死で探した。     どうせなら持ち歩いておけば良かった  教諭に見つかれば没収の上、反省文ものだが盗まれるよりはましだったかもしれない、と激しく後悔する。  寮は1部屋を2人で使用する作りになっており、部屋に鍵はかかるが授業が終わって寮に戻ってからの自由時間にはどの部屋も開けっ放しだ。その時なら誰でもいつでも入って来ることができる。貴重品は自己管理が基本で各部屋に貴重品入れも備わっているが、盗難届が提出された場合には全部屋の教諭による徹底的な捜索が行われるのでそういった事態になるまでのことはほとんどない。  美己男にとっては大事な思い出のある赤いガムボールだったが駄菓子1つのことで盗難届を出すわけにもいかず、落ち込んだ。 「尾縣(おがた)君、晩飯の時間」 「うん、わかった」  ルームメイトの小田に声をかけられてノロノロと食堂に向かう。 「見つかった?」  心配そうに訊いて来る小田に首を横に振る。  食事は全校生徒が一斉に食堂に集まって食べる。開始時刻と終了時刻が決められており、基本、終了するまで食堂を出ることは許されない。各々の食事が済んで、ザワザワと食堂のざわめきが大きくなる中、美己男は落ち込んだままボソボソと夕食を食べた。  隣のテーブルでは同じクラスの3人組が大声で下らない話をしている。  そのうちの1人、高良田(たから)という体が大きく、粗暴な生徒がいつも何かと絡んできて美己男は入学以来、ずっと不快な思いをしていた。  高良田は2人の取り巻きをいつも引き連れていてクラスでも煙たがられており、今も取り巻きと大声で話しながらチラチラと美己男の方に視線を送ってきていた。     またか  美己男はいつものことながら今日はことさら嫌な気分で高良田を無視して食事を続けていると 「ガム欲しい人ー」 と言うわざとらしい高良田の声が耳に入った。 「はーい」 「はーい」  取り巻き達が手を挙げる。  思うつぼだとわかっていても、美己男はビクリと反応して思わずそちらに視線を向けてしまった。  高良田は美己男の注意が自分に向いたのを確認したかのようにニヤリと笑って 「残念、1個しかねぇ」 と、赤いガムボールの袋を破って高く投げ上げ、あーんと口を開けた。   あれは、俺の  赤いボールは一瞬のうちに高良田の口の中にストンと落ちて美己男の視界から消えた。  クチャクチャとわざとらしくガムを噛むおぞましい音が聞こえる。その瞬間、美己男の頭は真っ白になって血が沸騰したかのように体が熱くなった。視界が狭くなり高良田しか見えなくなる。テーブルを乗り越え、周りの食器を蹴散らして高良田に飛びかかると、そのままの勢いで床に押し倒し馬乗りになった。  突然の出来事に周りが一瞬、シンとした。 「うわぁ、尾縣君っ」  小田の叫び声でテーブルの周りが騒然となる。  美己男は床に散らばったトレイを手に掴むと力任せに高良田の頭を殴りながら喚いた。 「返せっ、俺のガムボールっ。出せよっ、汚らしいっ」  トレイで滅茶苦茶に殴りつけ、口の中に指を突っ込む。 「尾縣君っ。尾縣君っ」  小田がオロオロと叫び声を上げるが、美己男には何も聞こえず、ひたすら高良田の口の中のガムを取り返そうとした。ガブリと思い切り口の中に入れた指を噛まれるがお構いなしに突っ込む。  一瞬、美己男の剣幕に驚いて倒れた高良田がすぐさま美己男の手首を掴み、もう片方の手で美己男の細い首を掴む。圧倒的に体の大きな高良田はあっさりと美己男の体をひっくり返し、今度は自分が馬乗りになって首をグイグイと絞めた。 「殺すぞっ、クソチビっ」  体重をかけて首を絞められ、美己男は息ができなくなった。んがっ、と喉が鳴る。 「高良田っ、もうヤメろって。そいつ死んじゃうぞっ」  美己男の耳がキーンと鳴って目の前が暗くなってくる。 「こらぁー、お前ら、何しとんじゃぁ」  教諭の怒鳴り声とともにようやく美己男の首にかかっていた手が離れた。美己男はガハッとうつ伏せになって息を吸おうとあがき、ゲボゲボと食べたものを吐き出してしまう。 「誰かぁ、担架。みんな下がれぇ」  ぼんやりと視界が戻ってきて教諭に2人がかりで床に押さえつけられている高良田を睨みつけた。 「尾縣ぁ、聞こえるかぁ?」  水の中にいるように教諭の声が遠くに聞こえ、小さく頷き咳き込んだ。 「意識はあるな」  そのまま担架に乗せられて、美己男は救急病院に運ばれた。    検査結果は大したことはなかったが色の白い美己男の首には痛々しいあざが残り、思い切り噛まれた指は何日か使いものになりそうもないほど腫れあがっている。 1晩入院して寮に戻ると、美己男の全校生徒の前で起こした大立ち回りは学校中の噂になっていた。  相手の高良田は美己男があれほど力一杯殴ったわりには、少し額を切った程度でたいした怪我にはなっていなかったらしい。先に殴りかかってきたのは美己男のほうで自分は正当防衛だと主張したようだったが、それにしてはあまりにも過剰な反撃と、駄菓子1個とはいえ盗難があったことが暴行の発端であったため、1か月の隔離という厳しい処罰が下った。  美己男は暴力行為を働いたことは咎められたが明らかに高良田よりも重症だったので、3日間の隔離という名目の療養となった。  顔の綺麗さですでに目立っていた美己男はこの武勇伝のおかげでさらに注目を集めることになってしまい、噂は隔離が明けて数日経ってもなかなか収まらなかった。 クラスでも寮でも、好奇の目に晒され美己男は堪らず技術準備室に逃げ込んだ。  放課後の作業棟は誰もおらず静かだ。1人になって美己男はホッとした。  鍵をもらってから何度かこの部屋に逃げ込んでいたがゆっくりと見たことはない。薄暗い準備室の端に座り込み、ぼんやりと部屋を見渡した。  はさみやカッター、ペンチやレンチなどの小さな工具から、電動のこぎりやサンダーなどの電気工具、他にもたくさんの道具類が棚に収納されている。どれも綺麗に整頓され収納されてあるべきところにきちんと収まっており、大我が丁寧に扱っていることが感じられて居心地が良い。  工具だけでなく、材料が積んである棚や模型などが飾られているガラス扉つきの棚まで全てが整然と並んでいた。たくさんの図面や、教科書、資料や、雑誌の類もきちんと並べてぎっしりと書架に詰め込まれている。  その中にひときわ美しい装丁の写真集がいくつか並んでいるのを見つけて、美己男はその棚を覗き込んだ。 「ま、ほろ、くにつか」  外国の写真集だろうか、英字の表記の表紙の名前を読む。 「くにつか、まほろ?日本人?」  どの写真集も同じ人物の名前が書いてある。  1冊を手に取ると、パラパラとページをめくった。     建物?建築家かな?  美しい流線型をした建築物の写真が、燦燦(さんさん)と降り注ぐ光に照らされていたり、夜空の中、ライトに照らされていたりしていた。赤紫色の夕暮れの空をバックにその美しい流線型の形が黒いシルエットになって浮かび上がっている写真があまりにも美しく、美己男の目を引く。最後のほうに建築家本人らしき人物の写真も載っていた。   へぇ、かっこいい  思っていたよりも若い40代くらいの日本人だ。   大我(おおが)先生、この人の建築、好きなのかな  他の写真集を手に取ろうとした時、廊下を歩いてくる足音が近づいてくるのが聞こえてきて、美己男は急いで準備室の廊下側のドアを開け顔を出した。 「せんせっ」  驚いた様子で大我が立ち止り美己男を見た。 「うわ、尾縣」  美己男の姿を見て口元を緩める。  大我が鍵を開けて技術室に入ったのを見て、美己男も準備室に顔を引っ込め、技術室の方の扉から教室に入った。 「尾縣、こないだ食堂で大暴れしたらしいな」  大我がなぜか嬉しそうに訊いてくる。 「えへへ、先生も知ってるんだ」 「おお。ここ何日か、職員室でもお前の噂でもちきりだからな」  そう言いながらも美己男の首の包帯を見て顔を(しか)めた。 「えらい武勇伝だけどひどい有様だな。大丈夫なのか?」 「うん、平気。痛みはもうないから」 「ならいいけど。にしても、無茶するなぁ。相手、あのでかい奴だろ?もっとひどい目にあってたかもしんないのに。尾縣って臆病そうなのにキレると容赦ないよな」  美己男が何度かここに逃げ込むうちにお互いの口調はすっかり砕けた調子になっている。 「だってさ」  美己男は口を尖らせた。 「尾縣から殴りかかったって聞いたけど?何、何かあったの?」  大我が大量のプリント用紙を机の上に並べる。 「せっかくだし、ちょっと、手伝って」  大我は美己男を手招きした。 「えー?やだ。せっかくの意味、わかんないし」  そう言いながらも大我の横に座る。 「これ、1枚づつ取って最後にホッチキスで止めて。後でジュース(おご)ってやるからさ」 「アイスがいい」 「うん、アイスな」  並んでプリント用紙を手繰(たぐ)りながらパチリ、パチリとホッチキスで止める。 「で、何?何があったって?」  大我が待ちきれない様子で訊く。 「高良田、すげー殴ったのに全然ダメージなくってさ。逆に首絞められて死ぬかと思った」  大我がうんうんと頷く。 「生活指導の先生が言ってた。喉潰されなくって良かったってよ。尾縣の首、細いもんなぁ。指も噛まれたんだろ?あ、悪い、怪我人に作業させちゃってんな、俺」  今更ながら大我が言う。 「え?今頃?おそっ」 「何で指なんか噛まれるわけ?そんなとこ噛むか?普通」 「俺が高良田の口に手、突っ込んだから噛まれた」  美己男の話に大我が吹き出す。 「尾縣ってマジでおもしれぇ。なに、殴ってもダメージなくて口に手、突っ込んだの?」 「違うよ。俺の大事にしてたガム、高良田が盗んで食っちゃったからっ」  美己男はムキになって言った。  大我が驚いて手を止め美己男を見た。 「え?ガム?」 「うん」  大我が爆笑した。 「え?え?そんで、ガム、口から取り返そうとして手、突っ込んだの?取り返してどうするつ もりだったんだよ。尾縣、食うのか?それ」  大我がアハッ、アハッと笑いながら訊く。 「食わないけどっ。でも嫌だったんだもん。あいつがクチャクチャ言わせながら俺のガムボール食うの見てたら、汚らしいって、思って・・」 「えー?汚らしい?何それ」 「なんかわかんないけど、やだって思ってっ」  クチャクチャという音と高井田のニヤリと笑った顔が蘇ってきて、美己男の頭はまたぼぅっとなりドキドキと体が熱くなってくる。  大我が美己男の顔を見た。 「けど?わかんなくても、言葉にしてみな。でないといつまでも自分の感情、コントロールできないままだよ」  大我に促されて美己男はなんとか言葉を押し出す。 「あれは」 「うん」  「あのガムボールは、寛ちゃんとの初めての冒険でっ」  美己男の喉の奥に熱い塊がせり上がってきた。 「うん、どんな?」  パサリと紙を手繰る音とパチリとホッチキスを止める音に大我の声が重なる。  「あの日、俺、母さんにコンビニに置いてかれて。泣きながら寛ちゃんとこに戻ったら、そしたら寛ちゃんが市場行くぞって。暗い市場の中を寛ちゃんが走って行くから俺、暗いとこ怖かったけど、寛ちゃん追っかけて。寛ちゃんの背中、あっという間にトンネル抜けて、光の中飛び出して」  美己男の目からボタボタと涙が零れた。 「うん」  大我が静かに隣で聞いている。 「駄菓子屋でアイス買って、1本を半分こな、って。そしたらおばあちゃんがガムボールくれたんだ、俺たちに1個づつ。寛ちゃん、赤いの迷わず選んで。俺は選べなくて、でも寛ちゃんが早く早くってせかすから同じ赤いの選んだ」  美己男は(こぶし)で頬を拭った。 「その時のガムボールはもったいなかったけど、すぐに食べちゃったから。ここ来る前にあの駄菓子屋で同じの買ってこっそり持ってきてたんだ、1個だけ」  美己男の喉がグビ、と鳴る。 「そっか、笑って悪かった。そりゃムカつくわ、高良田なんかに汚されたら。偉いな、尾縣。大事なもんの為にちゃんと全力で戦ったな」  大我が美己男の小さな坊主頭に手を置いてサリサリと親指で撫でた。 「かっこいいな、カンちゃん」 「うん」 「じゃあ、カンちゃんのところに尾縣を無傷で返さないとな」  大我は出来上がった山積みの資料をまとめると立ち上がった。 「んじゃ、アイス、とガムボールつけてやるよ、手伝ってくれたお礼に」 「え?マジで?やった」  美己男は顔を上げた。 「ガムボール、売ってんの?学校前の店?」 「知らん」 「え?なんだよっ、知らんのに言ったの?ヒドイ」  あはは、知るかよ、と笑う大我の背中を美己男はせかすようにグイグイと押した。
0
いいね
0
萌えた
0
切ない
0
エロい
0
尊い
リアクションとは?
コメント

ともだちにシェアしよう!