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3年生の6月のこと

   受験を決めてから美己男(みきお)はさらに熱心に技術室に通った。  大我(おおが)と相談して製図と家具製作などの木工技術が学べるデザインコースを受験することに 決め、今は受験課題のデッサンの練習をしている。 「もー、ヤダ。」  美己男は鉛筆を放り出した。  子供の頃からあまり集中力が続かない美己男には長時間、描き続けるということがなかなか(つら)くてできない。  大我が製図机から顔を上げた。 「尾縣(おがた)はデッサン苦手だなぁ。製図は得意なのに。」 「美術じゃないのにデッサンとか、考えてもなかったんだもん。」 「まあな。素描(そびょう)を極める必要はないけど、家具製作でも木工製作でもデザイン ありきだからな。頭ん中のもん、2次元に落とせなきゃ話になんないよ。」 「んー、ずっと見てたらなんかさ、こう、わぁって、ならない?」 「・・ならない。集中力の問題だろ、それ。」  大我が笑う。 「ちょっと休憩するか。」 「やった。」  美己男はうーん、と伸びをした。 「購買行こうよー。」 と大我のシャツを引っ張る。  放課後の校舎でまだ生徒があちこちでたむろしながら騒いでいる中、大我と同じ高さに なった肩を並べて廊下を歩く。 「先生、コーヒー牛乳でいい?」 「おー、頼む。」  食堂のテレビを見上げて立ち止った大我を残して美己男は自動販売機でコーヒー牛乳と フルーツオーレを買った。 「いつものコーヒー牛乳・・。」  テレビを見つめている大我の顔を見て美己男は立ち止った。  チリチリとした毛が逆立つような緊張した気配が大我の強張(こわば)った肩から漂ってくる。 「せんせ?」  つられて美己男もテレビを見上げた。  一人の男性がインタビューのようなものを受けて話していた。  周りが騒がしくて音声がよく聞こえない。      どっかで見た人だな  美己男は一生懸命、思い出そうとした。  テレビ画面の下の方に   『建築家 國柄万宝(くにつかまほろ)』 という文字が浮かび上がる。 「あ、あ、これ、建築家のっ。」  美己男は思い出して声を上げた。 「せんせ、この人っ、写真集のっ。大我先生の好きな建築のクニツカマホロだっ。」  美己男ははしゃいで大我を見た。 「尾縣・・、知ってんの?」  (かす)れた声で大我が言う。  真っ白い顔で怖いほど強張(こわば)り、目元が怒りなのかキリリとつり上がっている。 「え?あ、だって写真集、準備室に。」  美己男は口ごもった。 「見たの?あれ。」 「あ、1年の時。でもパラパラっとしか見てないよ?」  大我は無言で(きびす)を返すと、スタスタと歩き出した。 「あ、ちょっとっ、待って、せんせ。どうしたのっ。待ってっ。」  美己男は慌てて追いかけた。  食堂に残っていた生徒が何事(なにごと)かと振り返る。  技術室に戻るとガシャガシャと乱暴に準備室のドアを開けて中に入った。 「え?あ?せんせぇっ、どうしたんだよ。」  大我は一言も話さないまま準備室に入るとゴミ箱を手に引きずって行き棚の前で立ち止 まった。 写真集を棚から取り出してゴミ箱に次々に投げ入れ始める。  一緒に並んでいた雑誌もことごとく放り込んだ。 「ちょ、せんせ。何、どうしたんだよっ。」  美己男は慌てて後ろから抱き着き、大我の手首を掴んだ。 「何、俺、何か悪いことした?ごめん、勝手に見て。触っちゃいけなかったの?」  大我が美己男に手首を掴まれ、動きを止めた。  体が熱く、バクバクと鼓動が背中から美己男の胸にまで響いてくる。  美己男は汗ばんだ大我の手首を掴んだままギュッと体を強く抱きしめた。  フッ、フッと大我の荒い息が頬にかかる。 「せんせ?なんか、嫌だった?」  美己男の声に大我が、ゴクリと喉を鳴らしきつく目を閉じた。 「離して。」  しばらくして大我が低い声で言った。 「やだ。」 「離せって。」 「離しても暴れない?」  大我が小さく頷く。  体の力が抜けるのを感じて美己男はそっと手首を離した。  強く握っていた手首が赤くなっている。 「ごめん、痛かった?」 「平気。」  大我はそう言うとフイと準備室を出て行った。  床に雑誌が何冊か落ちて散らばってしまっている。  雑誌の間に挟んであったのか、何枚かの写真も床に散らばっていた。  美己男がしゃがんで一枚一枚拾い上げ眺めた写真には銀髪の大我と、30代後半くらいの男性が写っていた。    これ、さっきの人・・國柄万宝    二人はどれも楽しそうな表情で、いかにも親密な雰囲気だ。  その中にはいくつかきわどい写真も混じっている。  写真の中の大我の姿に、美己男の目は釘付けになった。  美己男は全て拾い終えると、丁寧にまとめて棚に戻した。  ゴミ箱に大我が投げ入れた写真集や雑誌も取り出して、丁寧に手の平で汚れを拭い、棚に 並べ直す。  美己男は一枚の写真をそっとポケットに入れて技術室に戻った。 「一緒に写ってた人、さっきの建築家の人だね。國柄万宝さん。」  教室でポツリと座って窓の外を見ている大我の横に座って美己男は話しかけた。  無言の大我はひどく頼りなげに見える。 「先生の、離れちゃった好きな人?」  しばらくの沈黙の後、 「だった人。」 と短く答える。 「もう、違う?」 「違う。」    嘘だ、今もこんなに苦しそうなのに 「どうして離れちゃったの?」  美己男の質問に大我はハハ、と乾いた笑いを返した。 「当たり前だろ。向こうは今や世界のクニツカだぞ。片やこっちはしがない中学の技術の 臨時教師。住む世界が違い過ぎんだろ。しかも俺、男だし。」  ぼんやりと窓の向こうを見たままだ。 「住む世界が違ったら、好きでいられなくなる?それでもずっと好きじゃダメなの?」    先生、こんなに全身で好きって言ってるのに? 「尾縣ってほんと、おめでたいな。離れててもずっと好きとか、いつまでも変わらず愛する とか、おとぎ話じゃあるまいし。」 「だけど、先生、その人のこと忘れられないんでしょう?今でも好きなんじゃないの?」 「忘れられないのと、まだ好きなのとは全然違うだろ。ひどい思い出だから忘れたくても忘れられないってこともあるんじゃねーの。」 「だけど、写真、まだ持ってる。」 「だから、さっき捨てようとしただろ。ってか尾縣さぁ、そんなんで大丈夫?お前の大好きなカンちゃんだって、今度会った時、尾縣の事なんて忘れてるかもよ?忘れてなくても、工業科と特進じゃあ、無視されんのがオチだよ。」 「そうかもしれないけど。だけど、俺が寛ちゃん好きなことは変えられない。」 「それだけで側にいられる?カンちゃんは、ゲイじゃないんだろ?」 「それは・・。」 「そんなんで、よくそんなことが言えるな。これから尾縣の大好きなカンちゃんはお前の 目の前で女の子と付き合って、そのうち結婚して、子供作って、ってしてくんだぞ。 それでもいいって、尾縣、言い切れる?絶対に選ばれないってわかってても?」  美己男はそう言われて胸が詰まった。  苦しくなって、涙が(こぼ)れる。    それは、そんな    わからない    わからないけど    大我は黙って涙を零す美己男の顔を見て、しまった、という苦い顔をした。 「だからっ、そういうのがっ。」  大我が額を押さえる。 「悪い、言い過ぎた。尾縣といると時々俺の方がバカになる。悪いけど今日はもう終わりに して。」  大我は立ち上がって製図机に向かった。 「・・ごめんなさい。」  美己男は頬を(ぬぐ)うと、静かに技術室を出た。  美己男は寮に帰って、ポケットに入れた写真を取り出した。  目を引かれて思わず持ってきてしまった大我の写真。  ホテルの部屋だろうか、大きな窓の前で、ソファに座っている大我が映っている。  上半身、裸で眩しそうに笑ってこちらを見ていた。  その熱い視線は写真を撮っている人物に向けられたものだ。  写真の中の大我の瞳を見返す。  抱きしめた大我の体の熱がまだ、美己男の腕や胸に残っている。  ドクドクと大我の鼓動が響いて、髪から木の(くず)の匂いがした。  手の平が大我の汗でまだ湿っているかのように感じる。  美己男は下半身が(うず)いてきて片手を下着の中に入れた。 「せんせ・・。」  美己男は固くなった自分のモノを握ってしごき始めた。  はぁはぁ、と息が上がってくる。 「んっ、あ、せんせぇ。」  美己男は(うめ)いて白い液を手の中に出した。  美己男は昨日、飲み損ねたコーヒー牛乳とフルーツオーレを手に、技術室に向かった。  ガラガラと扉を開けて 「お邪魔しまーす。」 と声をかける。 「おお、いいところに来た。」  大我が大量のプリントを机に並べている。 「あー、また。それ。」 「あとでフルーツオーレおごる。」 「えー、昨日、飲んでないやつ持ってきちゃった。」  いつもの大我の表情に美己男はホッとしながらコーヒー牛乳を大我に渡した。 「おおー、気が利くな。」  並んで座ると一枚づつ、紙を取り、パチリとホッチキスで止めていく。 「これ、去年もやったよね。」 「そうか?」 「おととしも。」 「ああ、おととしって、尾縣が一年の時じゃん。」 「あは、高良田(たからだ)に首、()められてさぁ、危なかった、俺。」 「そうだ、尾縣泣いてたなぁ。カンちゃんの話して。」 「うん。」  大我が目を伏せる。 「昨日は、カンちゃんのこと、あんな風に言って悪かった。尾縣にも、ひどいこと。」 「せんせ。」  大我の言葉を(さえぎ)って美己男は話始めた。  急いで話さなくては、言い出せなくなりそうだ。 「ん?」 「もっかい、彫って。」 「・・・。」 「昨日の國柄さんの出てた番組、俺、あの後、もう一回見た。」  大我がビクリとする。 「今度、國柄さんが特別審査員する工芸展があるって。誰でも、どんな作品でも応募できる 工芸展で。」 「尾縣っ。」  大我が大声を出して話を遮る。 「聞いて、せんせ。」 「いやだ、もう、やらないって決めた。もう彫れないんだよ、俺は。」 「國柄さんが言ってた。これは、誰でも参加できるんだって。一度、諦めてしまった人でも、ブランクのある人でも、できないと思い込んでいる人でも、きっとできる。そういう人に参加して欲しい工芸展なんだって。」  大我の顔が(つら)そうに歪む。 「はぁ?何言ってんの?」 「きっと、あれは先生に向かって言った言葉だと思う。」 「ふざけんなっ。そんなわけないだろっ。あいつのせいで、俺はっ。」  美己男は泣きたくなった。 「お願い、せんせ。もう一回、彫ってよ。俺、手伝う。何でもするから。」 「だからっ、いい加減にしろよっ。お前、何なの。何でそこまでっ。」 「だって、先生、こんなに苦しそうじゃんっ。そんなの、俺、やだっ。」  美己男は大我の手を握った。 「嫌なんだよっ、そんなに苦しそうな先生、見てるの。」 「俺は、もうお前みたいに何かのために戦えない。無理なんだよっ。」 「じゃあ、俺が彫る。先生の代わりに。俺が彫るからっ。教えて、先生のチョウコク。」  美己男は訴えた。 「何言ってんだよ。そんなことできるわけないだろ。ふざけるなっ。そんな簡単に彫れる かよっ。」  大我が美己男の手を振り払って立ち上がる。 「簡単じゃないのは分かってる。それでも、俺・・。先生のこと・・。」  美己男は腕にすがりつく。 「お前、人の事、構ってる場合かよ。受験して高校進学して、早くカンちゃんとこ帰れ。」  大我はそう言うと教室を出て行った。 「待ってよぅ。」  大我の背中が涙で(にじ)んでよく見えない。      先生に分かって欲しかったのに    あれは絶対に大我先生に向かって言ったメッセージだって  美己男はピシャリと閉じた扉に自分が締め出された気がして涙を零した。  その日以来、明らかに大我に距離を取られているのがわかる。  受験対策のデッサンの練習は変わらずしてくれるし、話もしてくれる。  他の生徒と同じ程度に。    嫌だな  美己男はモヤモヤと(くす)ぶった気持ちでそれでも毎日、大我に会いに行った。 「うん、よく描けてる。これだけ描けるようになれば、受験の実技試験には十分じゃないか?」  描き上がった素描を見ながら大我は美己男に言った。 「それって、もう来るなって言ってる?」   美己男は聞いた。 「そんなこと、一言も言ってないです。この調子で線を描くだけでもいいから毎日、描きな。でも、それもほどほどに。他にもやんなきゃいけないこといっぱいあるだろ?他の受験科目、大丈夫なの?」  ん、とデッサンを返しながら大我は美己男に聞いた。 「やたら優しいじゃん。」  美己男は突っかかった。 「何だよ、優しいのに何で不機嫌?」  意味わかんねー、と言いながら大我は机に向かってパソコンに打ち込みを始める。  今日は一日、雨模様で放課後になってもまだ雨が降り続いていた。  電気が点いていてもなんとなく教室は薄暗く、寂しい。  カタカタと大我がパソコンに打ち込むキーボードの音と、サワサワと雨の降る音が寂しさを増す。  美己男は大我の後ろに椅子を引き寄せて座った。  大我の背中に頭を寄せてもたれかかる。  顔を見て話す勇気が出ない。    先生、木の匂いがするなぁ  大我が一瞬、動きを止めたが、何も言わずまたカタカタとキーボードを打ち込み始めた。 「先生は女の人と付き合ったことある?」 「あるよ。」 「セックスした?」 「うん。」 「でも男の人ともしたんだよね?」 「まあな。」 「じゃあ、先生は女の人も男の人も好きなの?」 「・・どうかな、最近は誰も好きになってないからよくわかんないな。」  キーボードを打ち込む度に体が揺れて、その振動が美己男にも伝わって来る。 「國柄さんを好きになっちゃったから?だからもう他の人を好きになれなくなっちゃたの?」 「逆だよ。あの人を嫌いになってしまったから。あの人を好きになった自分も嫌いになって、何もかも嫌いになった。」 「何で?あんなに楽しそうだったのに。」 「あの人、結婚したから、女の人と。」  美己男の鼻の奥が熱くなる。 「大我先生と恋人同士だったのに?」 「うん。結婚は形だけだから、俺たちは何も変わらないって言われたけど、そんなんデタラメだと思った。全部が嘘に思えて、自分で全部壊した。尾縣みたいに頑張れなかったんだよ、俺。」  美己男は大我の腹に手を回してギュッと抱き着いた。 「せんせ、俺、先生のことが好き。」  大我は美己男の言葉が聞こえなかったかのようにカタカタとキーボードを打ち続ける。 「俺のことが可哀想になっちゃった?」  雨が強くなってきたのか、サーサーと先ほどよりも大きな音がする。 「違う。」 「じゃあ、尾縣の中のカンちゃんのイメージと今の俺がごっちゃになって、訳わかんなく なっちゃったか?」  大我は笑った。 「寛ちゃんのことは大好きだけど、先生のことを好きなのもほんとだよ。ごっちゃになんて なってない。」  美己男はムキになって言った。  うまく説明できなくてもどかしい。 「うまく言えないけど。今の俺が今の先生のことを好きなの。」 「また、そんなこと言って。お前のそういうところが周りを勘違いさせるって言っただろ。」  大我がため息をついた。  大我のため息は美己男を悲しくさせる。 「・・寛ちゃんのことを嫌いにならないと、先生を好きになっちゃいけない?」  大我に聞いた。 「いけないってことはないけど。」 「じゃあ、先生に好きな人がいたら俺は先生に好きって言っちゃいけないの?」 「そんなこともないけど。」 「じゃあ、どうして?」  大我が美己男の問いかけに手を止めて言葉を探す。 「どうして・・。尾縣と俺とじゃあ、今は同等でないから。」 「ドウトウって?」 「平等な立場じゃないってことだよ。」 「平等じゃないと、好きになったらダメなの?ドウトウじゃなくちゃ、好きになったり好きになってもらう資格はないってこと?」  美己男は混乱してくる。 「同等でなくちゃいけないってことはないよ、もちろん。だけど、同等でない時の強い想いは、時々すごく暴力的で相手をひどく傷つけてしまうことがあると俺は思う。」  大我は美己男の手をほどいて振り向いた。 「教師と生徒なんて、圧倒的に教師の方が強い立場にいるから。それに、俺は尾縣を カンちゃんのところに無傷で帰さなきゃなんないし。」  大我はいつものように美己男の頭に手を乗せるとサリサリと親指で撫でた。    それは・・どういう意味だろう?    俺を傷つけたくない、って言ってるの?    先生も俺の事・・ 「そろそろ、一人にしてくれる?試験問題作ってるところを生徒に見られてるってバレたら、さすがにマズいんだけど。」  大我の笑う顔が優しくて美己男は辛くなる。 「やだ。先生のそんな優しい言い方。なんかキモい。」  美己男は甘えた口調で言った。 「尾縣ぁ、いい加減にしろって。真面目に話した時間、返せよ。」  大我が嫌そうに眉を寄せるのを見て美己男は笑って立ち上がった。 「ごめん。んじゃ、また明日ね、せんせ。」 「ん、お疲れ。」  美己男は薄暗い廊下に出て、熱い息を吐いた。

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