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倉庫での最後の日のことと4月の始めのこと

   少し朝寝坊をしてしまい、美己男(みきお)は慌てて荷物をまとめた。  母親の知愛子(ちあこ)がこれから一緒に住む家で待っているはずだ。 「朝飯、食ってく?」  大我(おおが)に聞かれ、 「ごめん、時間なくなっちゃった。」 とバッグを肩にかけた。 「そっか。」  大我と一緒に外に出ると空は晴れて少し寒さの(ゆる)んだ春の匂いが満ちている。 「先生、3年間、助けてくれて、守ってくれて、ありがとう。嬉しかった。先生のおかげで 居場所ができて、高校に受かって、自分の顔も好きになれた。(かおる)さんのこと大好き。 馨さんの全部が好き。」  美己男は大我の木の匂いとタバコの香りがする首に抱きついた。  大我がギュッと力を込めて受け止める。 「んー、俺も、尾縣(おがた)のこと、めちゃくちゃ好きだよ。離したくない。けど、楽しみ。 お前がこれからどんな風になってくのか。尾縣ならきっと大丈夫。その才能があれば、 きっとカンちゃんに愛されるよ。」  うん、と(うなず)いて最後に大我の匂いを胸いっぱいに吸う。 「じゃあ、行くね。」  美己男はそう言って体を離した。 「気をつけてな。」  大我がサリサリと頭を撫でた。 「うん、馨さんも。」  自転車のサドルに(またが)り、グイと思い切りペダルを踏む。  カチカチとタバコに火を点ける音を聞きながら美己男は走り始めた。  美己男は新しい家に行く途中、美容院を見つけて自転車を止めた。  知愛子との約束の時間に間に合わないが、気にせず、美容院に入った。    馨さんが大丈夫と言ってくれたから    今なら(かん)ちゃんにもきっと向き合える 「髪を赤く染めて下さい。」      赤は寛ちゃんの色だ    寛ちゃんは見つけてくれるだろうか    赤く染めたこの髪の俺を 「みーちゃんっ。もう、おそーい。」  久しぶりに会う知愛子は相変わらず、可愛らしく、悪びれたところの全くない様子で 美己男を迎えた。 「母さん、久しぶり。」  玄関で首筋に抱き着いて来る知愛子の体を受け止める。 「なによぅ、すっかり大きくなってっ。あんなに小さかったのにぃ。」 と嬉しそうに声を上げる。 「うん、俺、ちゃーちゃんがいない間にちわわからハスキーになったんだよ。」  美己男はそう言って知愛子を抱きしめた。  知愛子がきゃはは、と明るい笑い声を上げる。 「えー、ハスキー?なにそれ。ヤダ、何、その髪っ。茶色にすればぁ?ちゃーちゃん、 茶髪の人が好きなのにぃ。」  嫌いだった顔が大我のおかげで好きになれた。  母親に何を言われても、もう、平気だ。 「いいんだ、俺の好きな色だから。」  美己男は知愛子にそう言って靴を脱いだ。  新しい家は保護施設から歩いて10分ほどの文化住宅で、ずいぶんと古くお世辞にも綺麗 とは言えない所だったが美己男にはそんなことはどうでも良かった。  この町にいると、そこらじゅうに寛太朗がいるような気がしてしまう。  それで十分、満たされる。 「母さん、施設に行ってみた?」 と知愛子に聞いてみた。 「こないだ、行ってみたのー。また施設に入れてくんないかなって。」 「え?それで?」 「えー?ダメだったのよう。もうあなたは入れませんって。だから、この家、紹介して もらったの。」 「あぁ、そういうこと。ね、藍田(あいだ)さん、って職員さん、いた?」 「藍田さん?ああ、いたわよぅ。相変わらず、なんだか偉そうな人でぇ。ほら、みーちゃんと仲良かった子?」 「寛ちゃんっ。」 「あー、そうそう、あの人の息子。なんかさ、息子も嫌な目した・・。」 「会ったのっ!?」 「ううん、まさかー。でもその子がみーちゃんと同じ高校の特進だって、自慢された わよぅ。」 「あ・・。」  美己男の心臓がドクリと音を立てた。    寛ちゃんが特進にいる    本当に会えるかもしれない  その可能性を期待してきたはずなのに、本当に実現しそう、と思うと少し不安になる。  その夜、美己男はなかなか寝付けず、朝遅く起きたら下着が濡れていた。 「うわ、盛ってる・・。」  美己男は一人でそう呟いて笑った。  あと一週間で学校が始まる。  鏡で見る度、大我のつけた肌の赤い跡が薄れていく。  学校が始まる頃には全て消えてしまうだろう。  美己男は一つ跡が消える(たび)、お守りのように耳に穴を開けた。  大我が好きだと言って触れてくれた眉にも一つ、鼻にも一つ、そして唇にも一つ、 穴を開ける。  胸の真ん中に一番濃く残っていた跡が消える寸前、舌にシルバーのピアスを入れた。      きっと、大丈夫  美己男は鏡に映る自分の顔を撫でてそう言い聞かせた。   

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