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第4話

 …雨、だった。  その幼い姉弟は、みすぼらしい様子で寄り添うようにして、暗い雨の山道を急いでいた。 「姉上、お足元が危のうございます」  幼い弟が、歩き慣れぬ姉の足元を心配して、そっとその小さな手を添えた。 「心配は要りませぬよ。それより、一刻も早く叔母上の元へ参りましょう」  二人は、数年前に母を亡くしていた。  そしてこの度、殿のお怒りに触れた父の切腹と共に、お家は断絶。行き場の無い幼い二人は、遠い西国に嫁した顔をも見知らぬ母方の叔母を頼って、今、覚束ない足取りで旅を続けていた。 「姉上っ」  姉が、足を取られて泥濘(ぬかるみ)に膝を着いてしまう。 「大丈夫、大丈夫ですよ、千寿(せんじゅ)。けれど、少し疲れたようです」  心細げな表情の弟を動揺させまいと、無理に笑顔を作ってはみたが、姉のその顔色は紙のようだった。  口にこそ出さぬものの、先程から背筋を走る寒いものに気も遠くなりそうだった。しかし、まだ事態もよく分からぬ小さな弟の手前、姉として気丈に振る舞っていたのだ。 「あ、あねうえぇ……」  姉の様子に心細さを覚えてか、幼い弟は目には涙を溜め、ただ泣くまいと顔を歪めている。 「泣き言をもうしてはなりませぬ。それでも武家の跡取りですか。千寿丸(せんじゅまる)、そのように心弱いことで、お父上に顔向けができませんぞ」  とは言うものの、姉の真由(まゆ)は十二、弟の千寿に至ってはまだ七つになったばかり。幼い二人にとってのこの旅は、いささか過酷すぎるものだった。  その時、はっと何かを感じて千寿丸が顔を上げた。 「あっ!姉上、あそこに何やら明かりが見えます。もしかすると、誰ぞ人など居るかもしれません」  千寿丸の声がぱっと明るくなった。  子どもらしい無邪気さで、姉の手を引き寄せ、明かりの方へと向かわせる。 「ほら、姉上、ほら、あの少し高台(たかだい)の…」  疑いながらも、真由はその指差す方へと目を凝らす。 「まあ…」  そのまま言葉にならなかった。  確かにそこには、遠く微かではあったけれども、人家の明かりらしきものが揺らめいていた。  それが間違いなく灯火(ともしび)である事にほっと安堵のため息を落とすと、真由は千寿丸の手を借りてゆるゆると立ち上がった。 「今宵、一夜の宿がお借り出来ましょうか」  最悪の事態を心に浮かべ、期待と同時に、真由は不安に顔を曇らせる。  わずか十二歳の少女にすぎなかった真由も、この旅によって随分と大人になった。正しくは、大人と言う者を理解した、と言えるだろう。  そのことによって、真由が理解した「おとな」という、この上無く貪欲でずる賢い生きものと、対等に渡り合って生き抜いて行くには自分もまた「おとな」にならざるを得ないと、真由は悟っていた。 「きっと大丈夫ですよ、姉上。そのためにも、私たちは巡礼の姿に身を(やつ)しているのですから」  千寿丸にそう励まされ、姉弟はにっこりと微笑み合い、疲れ切った足を引き摺るようにしてその遠い明かりを目指した。 「やはり、どなたかの山荘のようですね」  山道の脇に、堂々とした門構えへと続く立派な石段があった。  その下に立ちどまり、真由は言い知れない不安に胸を押さえつけられながら、じっとその長い石段を見上げた。  そんな姉が待ち切れないのか、嬉々として千寿丸は駆け出して行く。  一方で、姉の真由の足取りは重い。 「待って、お待ちなさい、千寿」 「姉上、早く、早く!」  千寿丸は、どんどんと雨に濡れる石段を、難なく駆け上がって行く。 「走らないで、千寿。危ないわ、お()しなさい」  真由の声などもはや聞こえもしないのか、早くも千寿丸は山門の前にいた。 「千寿っ!」  山門の奥に見えた大きな黒い人影に怯えて、真由は絶叫する。 「千寿、行かないで!やめて!…やめて、おやめ下さいっ」  後の言葉は、千寿丸に向けられた物ではなかった。 「お許しを!おやめ下さい、左馬之介様!」  影の主、左馬之介の逞しい腕が、しっかりと千寿丸の体を抱き留めたところで、貞真尼は目を覚ました。 *** 「夢、…で、あったか」  もう、十年も昔になる。  あのいたいけな姿の真由も、こうして剃髪して尼僧となった。  何もかも、あの頃とは違う。すべては、変わってしまったのだ。 「千寿…」  しかし、姿形がどれほど変わろうとも、決して消えぬ想いというものもある。  貞真尼の呟きには、深い哀しみが今も色濃く塗り込められていた。  弟を亡くして三年経った。  もう夢にも見なくなって久しい。  それが果たして、今夜こうして久しぶりに夢で再会を果たしたというのも、亡き弟に似ているという、あの若い旅の僧侶のせいでもあろうか。  ここは、貞真尼が庵とする館の離れ。  同じ僧籍に身を置くものとはいえ、男である修顕と一つの屋根の下で起き伏しなど出来ようはずも無く、当然に修顕は左馬之介と共に母屋で眠っている。  ふと、貞真尼はその母屋の様子を伺いながら、その描いたように美しい柳眉を寄せた。 「千寿…」  もう一度その名を呟くと、貞真尼は起きだして仏座の如来に手を合わせた。

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