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そんな、ある日のこと。
「知っているかい、カワイ。この人間界で生きる全ての者が、取得に苦労するスキルの名を。……それは【空気を読む能力】だよ」
会社から帰ってきたヒトが、靴も脱がずに玄関でそんなことを言い始めた。
ボクに話しかけているはずなのに、ヒトの目線はボクに向いていない。絵に描いたような【心ここに在らず】状態。
とりあえず、返事はしなくちゃ。ボクは玄関で立ち尽くすヒトを見上げて、当たり障りのない返事をした。
「人間って、大変だね」
コクリ。ヒトは頷くだけ。なんだか、悲しそう。
これは、理由を訊いてもいいのかな。ボクはヒトを見上げたまま、恐る恐る訊ねてみる。
「それで、帰ってきて早々ヒトが死んだ目をしているのと、その取得困難スキルと……なにか関係があるの?」
「──その言葉を待っていましたっ! うわぁ~んっ! カワイ~っ!」
えっ、あっ。ヒトに、勢いよくギュッてされた。……ほっぺ、熱くなっちゃう。
どうやら、ヒトはボクからの『どうしたの?』待ちだったみたい。これはつまり、構ってほしかったってことなのかな。そんなヒトもカワイイ。
ヒトはボクの体をムギューッと強く抱き締めたまま、ワンワンと嘆き始めた。
「仕事を持ち帰ってきちゃったよぉっ! ごめんよぉっ! 家ではカワイとゼロ太郎との時間を第一に優先したいのにぃ~っ!」
なるほど。ヒトの抱擁と嘆きを受けて、ようやく納得。
いつも帰りが遅いヒトだけど、ついに仕事を持って帰るようになっちゃったみたい。ボクは泣きじゃくるヒトの背中をポンポンと叩いた。
それが合図になったかのように、ヒトは事の経緯をババッと説明し始める。
「俺さ? ちょっと前までカワイのこと避けてたでしょ? その間、仕事に没頭して現実逃避してたんだよね? だけど今は色々と悩みが解決したから普段通りになったつもりだったんだよ? でも周りは【なんでも仕事を引き受けてくれる追着さん】って認識をしちゃってさ? つまりそういうことなんだよぉ~っ!」
「……。……そう、なんだ」
[カワイ君。『自業自得だよバカ』と言って良いのですよ]
「あぁーッ! ゼロ太郎がいじめるぅーッ!」
ヒトは優しいから、頼まれた仕事を断れなかったんだね。つまり、それがヒトの言っている『空気を読む能力』ってことかな。
同情はする、けど。でも、それなら初めからボクを避けないで堂々としていてくれたら良かったのに、とも思う。だから、返事に困っちゃった。
「人生って甘くないんだよ! 今晩の料理みたいに! この匂いは麻婆豆腐だねっ? 大好き~っ!」
「うん、正解。キノコ入り」
「あぁ~っ! カワイ~っ! 昨日の切り干し大根の煮物もおいしかったし、一昨日の豆腐ハンバーグもおいしかったよぉ~っ! あと、今日のお弁当に入れてくれた蓮根の肉団子もおいしかったよぉ~っ!」
「うん、良かった。ゼロタローのおかげ」
「うわぁ~んっ、ゼロたろぉ~っ! 大好きだぁ~っ!」
[それはそれとして、これ以上力を込めるとカワイ君が潰れてしまいますよ]
ギャンギャン、ワンワン。泣き喚きながら、ヒトはボクを強い抱擁から解放した。
……別に、そのままでも良かったのに。ゼロタローの手前、それは言えないけど。
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