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 そして迎えた、翌日のこと。  今日も今日とて定時少し過ぎで帰ってこられたけど、昨日は大失敗しちゃったからね。今日は細心の注意を払いながら帰宅したぞ。  散歩中の犬は撫でさせてもらったけど、猫は我慢した。カワイとゼロ太郎が怒ると悲しいし、純粋に怖いからね。俺は己で己を褒めつつ、ルンルンと軽やかな足取りで帰宅した。 「ただいま~っ! さぁっ、カワイ! 帰ってきた旦那様のほっぺにチューをして~っ!」  残業する時間が少ないのって、なんて素晴らしいのだろう。足取りだけではなく心も弾ませながら、俺は帰宅と同時にカワイへそんなオーダーをしてみた。  俺の帰宅に気付いていたのか、本日のカワイは玄関前で待機してくれていたらしい。昨日の失態を危惧して俺の不貞行為を疑っていたから……ではないと、思いたい。  俺の発言を受けてすぐに、カワイは俺を見上げた。 「おかえり。今日は臭くないね。……じゃあ、ヒト。ちょっと屈んで」 「えっ。まさか本当にチューしてくれるの?」 「ヒトが望むなら、いくらでも」  これは、予想外の展開。トゲトゲしい発言があったような気はするものの、そんな引っ掛かりが瞬時に消え去るようなラッキー展開だ。  でも、ほっぺにチューか。思えば俺たちって、スキンシップは多いけどそういう触れ合いは少ないような……。  ……ど、どうしよう。緊張してきたぞ。俺は思わず、半歩後退してしまう。 「ちょっ、ちょっと待って、ストップ。汗とかで汚いかも、ごめん。ヤッパリ、今のはナシで……!」 「うん、分かった」  カワイは俺と違って、動揺していないように見える。頼んだらアッサリと快諾してくれて、俺が引いたらすぐに頷いてくれた。ふ、複雑すぎる……。  俺はカワイと一緒にリビングまで向かってから、着替えのために寝室に進む。カワイはお夕飯の準備をするために、キッチンに向かった。  パタンと扉を閉めてから、俺はネクタイを解く。そして、思わずポツリと呟いてしまった。 「そうか、カワイは俺が望んだらキスしてくれるのか。……そうか」 [そうですか、主様はよほど前科持ちになりたいのですか。……そうですか] 「俺と同じトーンで恐ろしいこと言わないでッ!」  いつだって、俺を現実に引き戻すのはゼロ太郎だ。しかもなぜか、ゾゾッとする言葉で。  しかし、ゼロ太郎が発した言葉に思うことはある。カワイは俺に対して、少々無垢が過ぎる気がするのだ。  スーツから部屋着に着替えつつ、俺は考える。真剣に考えてしまっていたからこそ、思わず思考が喉の奥から零れ落ちてしまった。 「俺はいったい、カワイをどうしてあげたらいいんだろう……!」 [まるで保護者のような葛藤ですね] 「保護者だけども!」  ゼロ太郎は俺をなんだと思っているんだ! 俺は彼氏である以前に、カワイのれっきとした保護者だよ!  いやしかし、そんな反論をゼロ太郎相手にしてみろ。きっと『れっきとした保護者は、保護対象に手を出しません』とか言われる! ぐうの音も出ないぞ!  ということは、もしかして。俺って実は、カワイの保護者じゃないのか? 「──くっ! ついに空想のゼロ太郎に論破されそうになるなんて!」 [──勝手に登場させたくせに勝手に傷付かないでください]  結論。ヤッパリ俺は、ゼロ太郎には敵わない。なぜだか無性に、そう痛感してしまった。

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