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第7話

文維に引き留められ、小敏は不満な顔をして振り返った。 「あ!あれを見て!」  玄紀が指さした先は「紅蘭亭」だ。  よく目を凝らして見ると、凝った造りの美しい飾り窓の端に違和感があった。 「え?」  沈着冷静なはずの文維までもが、思わず声を上げた。 「あれって…」  閉まっているはずの飾り窓から、真っ白…というより妙に青白く、細い腕が伸びていた。 「まさか…あの方がそんな…」  誰にも聞こえないような声で文維が呟くが、誰より近くにいた煜瑾には聞こえてしまう。 「誰のことです、文維公子?」 「……」  だが包文維はそれには答えず、煜瑾の手を引き、腕に抱えるように抱き寄せ、空いた手で小敏の腕を掴んだ。 「戻りましょう、小敏」 「でも、文維兄上…」  恐い物見たさなのか、小敏が不気味な腕の方を振り返ると、先ほどとは違っていることに気付いた。 「見て、腕が手招きしてる。こっちへおいでって言ってるみたいだ」  まるで魅入られたかのように、小敏はジッと腕から目を離さない。文維が気が付くと、玄紀までもが虚ろな目をして手招きをする腕を見詰めている。 「小敏?どうしたのです?あんな気味の悪い物なんて見てはいけない」  文維の腕の中で守られていた煜瑾が、不安に駆られて声をかける。  その時だった。 「そこにいるのは、誰だ~!」 「わ~っ」「ぎゃ~っ!」  暗闇に低く、良く響く男の声がして、小敏と玄紀は声を上げると、文維にしがみ付いた。二人に囲まれ、ビクリと身を震わせた煜瑾をしっかり抱き留め、文維は眉根を寄せ、思わずポツリと零した。 「誰だ?」  文維は四阿を見据えたが、あの白い腕は消えていた。  そして、すぐに我に返ると震えあがる年下の三人に叱咤する。 「すぐに逃げろ!今来た道を戻るんだ!」  そう言って文維は小敏の背中を押した。その勢いで小敏は玄紀の手を引いて駆け出す。それから文維も煜瑾を抱き抱えたまま走り出した。  振り向くことなく、少年たちは雑木林の細い一本道を駆け抜ける。  だが、確かに来た時は一本道で、すぐに開けた馬場が見えるはずなのに、行けども行けども月光の射さない暗い道が続く。 「小敏!」  文維がハッと気づくと、前を走っていたはずの小敏と玄紀の足音が消えていた。 ***  小敏たちとはぐれたと気付き、思わず文維も足を止め、震える煜瑾をギュッと抱き締める。 「いいですか、煜瑾。この先、一言たりとも言葉を発してはなりませんよ」 「…は…ぃ」  返事をしかけて、慌てて煜瑾は口を閉じて大きく頷いた。  煜瑾を片腕に抱き留めながら、文維は慎重に歩みを進める。周囲の様子を窺うが、小敏たちの足音は聞こえない。早くも馬場へ出たのだろうか。いや、そうは思えない。  深刻な表情の文維は、やがて足を止めた。  しばらく考え込んでいた包文維だったが、唐煜瑾を抱きかかえたのとは反対の方の手を胸中に差し入れ、何かを取り出した。 (手巾?)  声を出すなと言われていた煜瑾は、何も言わずに文維のすることをジッと見ている。  文維は取り出した白い手巾を、手近な枝に器用に片手で結び付けた。  そして煜瑾を励ますように見つめ、優しく微笑んで頷いた。  2人はゆっくりと前へと歩き出した。  暗い道を、体を寄せ合って歩くと、相手の心臓の鼓動が大きく聞こえる。特に文維の胸に抱かれた煜瑾の耳には、文維の冷静な心音が頼もしく思えた。 (私の心音が大きすぎて、文維公子に臆病だと笑われないだろうか)  そんなことを考えると、余計に煜瑾の鼓動が早くなる。  ただ静かに、二人は寄り添って歩いた。  しかし、先ほどと同様にいくら歩いても馬場には出られない。  そして急に文維が足を止めた。 (?)  どうしたのかと声を掛けようとして、慌てて煜瑾は唇を噛んだ。決して口を開いてはいけないと言われたのを思い出したのだ。  立ち止った文維が指を伸ばすのを、煜瑾は目で追った。 (え?)  文維が触れたのは、枝に結ばれた白い手巾だった。  驚いた煜瑾が背の高い文維の顔を見上げると、文維は見たことが無いほど険しい顔をしていた。  それは間違いなく、先ほど文維が枝に結んだ手巾だった。  確かに真っ直ぐに一本道を歩いていたはずだった。それなのに、なぜ元の場所に戻って来るのか煜瑾には分からない。  暫く考えこんで動かなくなった文維だったが、ハッと気が付いて煜瑾の方を見て慌てて優しく微笑んだ。言葉にこそ出さなかったが、文維のその笑顔は「大丈夫ですよ、煜瑾」と言っているように見えた。  思わず煜瑾もぎこちなく笑い返した。  やがて、文維はフウ~と息を整えると、眼を瞑り、何か呪文のようなものをブツブツと唱え始めた。  それを不思議そうに見ていた煜瑾だったが、次に文維の顔が迫ってくると驚いて動けなくなった。  文維はブツブツ言いながら煜瑾に迫り、その白い額にフッと唇を押し当てた。 (!)  何が起きたか分からず、身を堅くした煜瑾だったが、真剣な文維の眼差しに何も言えなかった。 「さあ、もうこれで話しても大丈夫ですよ」 「え?」  いつもの優しく穏やかな笑顔を浮かべる文維に、煜瑾はホッとして気が緩み、文維の胸に縋りつくとギュッと服を握り、そのまま静かにその胸で泣いた。 「っう…うっ…」  怖くて仕方がなかったはずなのに、必死で我慢していた優しい煜瑾が健気で、泣いている間中、文維は何も言わずに温かな掌でその背中を撫でていた。 「怖くない。私がいれば、何も怖くないからね」  二人はしばらくそのままでいた。

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