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第8話
やがて煜瑾も泣き疲れたのか大人しくなり、落ち着いたのを確かめて、文維は煜瑾を抱いたまま地面に腰を下ろした。
「疲れたでしょう?少し休みましょう、煜瑾侯弟」
泣き疲れ、ぼんやりと文維の胸に身を任せていた煜瑾が、ふと気付いて寂し気に言った。
「先ほどみたいに、呼んでくれたらいいのに」
「はい?」
思わぬ一言に、文維は半笑いで聞き返す。
「先ほどは、侯弟などと言わず、煜瑾と呼んでくれました」
「!…そ、それは失礼いたしました」
高貴な煜瑾侯弟を呼び捨てにするなどという無礼を指摘され、文維は慌てて恐縮した。
「違います!『煜瑾』と、呼んで欲しいのですっ」
懇願や要求と言うよりも、ちょっと拗ねたような甘えた言い方の煜瑾に、文維は戸惑いを隠せない。
「ええっと…」
困った様子の文維に、煜瑾はちょっと俯いて顔を背けた。
「私も、今から文維と呼びます。いいですね」
「ええ、それは構いませんが…」
言い分はかなりの上から目線だが、口調が可愛らしくて文維は思わず笑ってしまう。
二人はしばらくそのまま抱き合って休んでいたが、ふと煜瑾が口を開いた。
「あの…文維。先ほどの…あれは、なんですか?」
「あれ、と申しますと?」
「…つ、つまり…あの、私の額に…」
言いにくそうな煜瑾の言葉の意味を推し量り、文維は頷いた。
「実は、恭王殿下は一時『呪術 』や『巫術 』に興味を持たれましてね。たくさんの書籍や資料を買い集められました。なので、恭王府に伺った時に全て読ませていただいたのです」
何でもないことのように文維は言ったが、常日頃の私塾での勉強量といい、今回の夏休みの宿題といい、あれだけの物をこなしてなお、さらに呪術や巫術の勉強をする余裕があるのかと、煜瑾は驚いた。
「あれは、たまたま覚えていた魔よけの呪文です」
「魔よけ?」
「まあ、気休めですが…」
相変わらず穏やかな笑みで文維はそう言うが、もっと自慢してもいい事だと煜瑾は思った。
そしてハッと気づいて煜瑾は急いで文維に確かめる。
「文維は?」
「え?」
「私に魔よけの呪文を掛けてくれたけれど、文維は自分で自分に呪文を掛けられるのですか?」
そして文維は、優しい貴公子が自分のことを心から心配してくれているのだと気付いた。
「大丈夫。煜瑾…が無事なら、それでいいんですよ」
優しく慈愛に満ちた文維の眼差しに、煜瑾は胸の奥がじんわりと熱くなり、急にドキドキとしてどうしていいか分からなくなった。
そしてそのままの勢いで、良く考えもせずに煜瑾は文維の腕の中から抜け出し、起き上がった。
「煜瑾?」
不思議そうにする文維のこめかみのあたりに、白い指先を伸ばすと、煜瑾は文維の頭を両手で引き寄せた。
「文維も、無事でありますように…」
そう願いを込めると、煜瑾は文維を真似 て、その額 に唇で触れた。
「!」
煜瑾の突然の行動に、文維も反応が出来ずに呆然としていたが、ハッと我に返ると、不安そうな顔をした煜瑾に優しく微笑みかけた。
「ごめんなさい。私は呪術も巫術も使えないから、魔よけにはならないかもしれないけれど…」
「いいえ。煜瑾のお気持ちだけで悪いモノは去っていきますよ」
文維にそう言われると、煜瑾も嬉しくて、ほんのりと頬を染めた。
「私は、本当に何もできないのです」
文維に手を引かれ、その腕の中に戻りながら煜瑾は悲しそうに言った。
「梁寧侯爵の弟として、誰もが高貴だ、優秀だと言ってくれるのですが、私は何事も兄上には及びません」
温かな文維の胸に体を凭 れさせ、疲れた煜瑾はホッとする。
「私塾でも、学問では文維に適 わないし、小敏や玄紀のように乗馬や馬球も出来ない。私は、ただ兄上に守られているだけの、何も出来ない、役立たずなのです」
あの気位の高い、負けず嫌いの煜瑾の言葉とは思えなかった。それほど、この深夜の暗闇に心弱くなっているのだろう。
「今も、文維に守られるばかりで、何も出来ずに足手まといになっていますね」
怯えるように小声で言って、それでも不安を紛らわせるように文維の服をギュッと握った。
「どうして、そんな風に思うのですか?私は、煜瑾が一緒に居てくれて、本当に良かったと思っていますよ」
「本当に?」
文維の言葉に、胸の中の煜瑾がそっと見上げる。
聡明な文維の顔立ちは、いつも穏やかで優しい。それが嬉しくて、煜瑾もそっと微笑んだ。
その時、雲が晴れたかのように、真っ暗だった雑木林に月の光が差した。その柔らかい光が、煜瑾の白い頬にかかり、明るく輝く。
(ああ、本当に美しい子だなあ)
兄の梁寧侯爵と共に「才色兼備の貴公子兄弟」と噂されるだけあって、品の良い、端正な顔立ちの唐煜瑾に、月光が降り注ぐと、眩いほどに美しく、神々しささえ感じた。
目の前の美貌に、文維も素直に感心した。
その上、身分に乗じて気位が高く、気難しい子供だと思っていたが、根は優しい、繊細な少年だと分かるようになった。以前より、ずっと好感が持てるようになった文維は、心からこの子を守ってやりたいと思った。
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