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第10話

 あれほど禍々しかった雑木林の中であったのに、月が差し、煜瑾が眠ってしまうと、空気が変わったように文維は感じた。  煜瑾は疲れ切ったのかすっかり眠り込んでいる。  その寝顔を見ながら、一瞬逡巡したのだが、文維は白い手巾(しゅきん)を取り出した。 「試してみるか…」  難しい顔で何かを決意すると、文維は心地よさそうに眠る煜瑾を抱いたまま、先ほどの白い手巾を拡げた。それには飛燕の図案が刺繍されている。  そして、次に右の人差し指の先を噛むと、その先から赤い血が流れた。その血を、白い手巾の上にポタポタと落とし、眼を閉じると、口の中でブツブツと呪文を唱える。  すると、不思議なことに手巾がフワリと浮かんだ。スーッと文維の目の前まで浮き上がると、まるで命があるように、手巾はヒラヒラと文維の周囲を舞い始めた。 「賛洋(さんよう)王子ではありませんね?」  不思議なことに、手巾から声がする。 「恵嬪(けい・ひん)さまでございますね。私は賛洋こと(きょう)王の孫・包文維と申します」  ヒラヒラと舞っていた手巾が、まるで美人の指先のように文維の頬に触れた。 「ほう、あの賛洋王子に、もうこのような可愛らしいお孫さまが」  手巾は可憐な声でコロコロと笑った。 「恭王から、この手巾を持つものは恵嬪さまにお守りいただけると聞いております。どうか、私たちを宿舎にまで帰していただきたい」  真面目な文維をからかうように、その知的な顔を手巾はくすぐった。それを嫌がる素振りも見せずに、文維はグッと耐えた。 「ご下賜いただいた手巾を意地の悪い后妃に奪われ、紛失したと罪に問われ、ついに自害に追い込まれ、行き場を失くしてしまったわたくしに、賛洋王子は手巾を下さった」  手巾は急に真面目な声になり、文維に触れるのをやめた。 「この白い飛燕の手巾を持つものは、わたくしの恩人。願いは叶えて差し上げます」  そう言うと、手巾は着いて来いとでも言うように、文維の前をヒラヒラと飛び始めた。  それに気付くと文維は煜瑾を抱き上げ、手巾の後を追った。  周囲の暗闇も何も気にならなかった。ただ目の前を蝶のように飛ぶ、白い手巾だけを見詰めて、文維はひたすら足を動かす。腕に抱く煜瑾の重さも感じない。  あれほど歩いても抜け出せなかった木立なのに、手巾に導かれると、もうすぐそこに馬場が見えた。 (助かった…)  文維がホッとして木立から抜け出した途端、白い手巾はそのままフワフワと地面に落ちて動かなくなった。 「恵嬪さま、お祖父さま、ありがとうございました」  文維はそう口に出して言い、煜瑾を起こさぬよう気を付けながら、手巾を拾い上げた。 ***  煜瑾が目を覚ますと、そこは見慣れた宿舎の個室だった。  ゆっくりと周囲を見回すと、侍従の阿暁が恐い顔をして煜瑾を見詰めていた。 「文維は?」  開口一番の言葉に、阿暁は驚いた。煜瑾のような、甘やかされて育った、気位だけが高い子供が、最初に自分以外の人間の心配をするとは。 「文維公子は、眠っている煜瑾侯弟を抱いて、ここまで連れ帰って下さいました」  作り付けの大きく寝心地の良い寝台の上に、身を起こそうとする煜瑾に手を貸して、阿暁は続けた。 「もうお部屋でお休みですよ。ご安心ください」 「ん…」  阿暁に背中を支えられながら、煜瑾は白湯を一口飲み、ホッと一息ついた。それから改めて自分の従者の方に向き直った。 「心配を掛けて、ごめんなさい…」  またも阿暁は意外に思うが、顔には出さない。  真夜中に抜け出して、たくさんの大人たちに迷惑を掛けるなどと、侯爵家の貴公子として浅はかだと、とことん言い聞かせねばと思っていた阿暁だったが、こんな風に煜瑾が自分から謝罪の言葉を言えるようになっていたのは意外だった。  歳の近い学友たちとの交流が、こんな風に煜瑾を成長させたのかと思うと、阿暁の厳しい顔も、少しだけ緩んだ。 「煜瑾さまがご無事でなによりでした。話は明日にしましょう。今夜はもうお休みなさいませ」 「…兄上にも、謝らないといけないよね」  寂しそうに煜瑾が呟く。最愛の兄からの期待を裏切るのが何より辛いのだ。 「侯爵には…、私も一緒に謝罪しますよ」  阿暁はそう言って優しく労わるように微笑み、それに安堵して煜瑾は横になり、おとなしく目を閉じた。 *** 「あ…っ!」 「小敏兄様!」  ふらついた小敏に手を貸した玄紀が見ると、先ほど転んだのが悪かったのか、小敏の足首は腫れあがっていた。 「おや、脚を(くじ)いてしまったのですね」  傍に来た李豊は、小敏の足首を見て困ったように言った。 「これでは、歩いてお屋敷まで戻るのは無理ですね。すぐに誰かを呼んで参りましょう」  そう言って李豊が立ち上がると、急いで玄紀が申し出た。 「小敏兄様が怪我をしたのは私のせいなんだ。兄様は私が()ぶって帰るよ」  そう言うと、そのまま小敏の前にかがんで背中を見せた。 「ボク、自分で歩けるよ…」  恥ずかしそうに小敏は言うが、李豊は、そんなことは許しませんよ、と言った態度で首を横に振った。  仕方なく小敏は玄紀の背中に手を伸ばし、大人しく背負われた。 「大丈夫でございますか?」  心配そうに李豊が言う。それを気丈に頷いて、小敏は自分より少し背の高い小敏を背負って歩き始めた。  身長は小敏の方が高かったが、体重は玄紀と同じか軽いくらいで、思ったよりも軽いと、玄紀は自信を持った。一歩ずつ小敏の負担にならないよう、慎重に玄紀は歩を進める。 「心配かけて、ごめんなさい」  情けなくて小敏は小さな声で言った。 「あれほど西の庭園には言ってはならないと申し上げたのに…」  困ったように李豊が口を開くと、それ以上言わないで、とでもいうように、玄紀が李豊の袖を引っ張った。 「ねえ、文維兄上と煜瑾侯弟はご無事?」  不安そうに小敏が訊ねると、李豊は穏やかに微笑んだ。 「ご心配には及びませんよ。先ほどお二人揃ってお屋敷に戻られました」 「良かった…」  ようやくホッとして、小敏は頬を緩めた。 「何がおありになったのです?」  李豊が訊ねると、玄紀も小敏も深刻な顔つきになり、黙り込んでしまった。 「とにかく、詳しくは明日の朝、廷振王子の前でお話くださいませね」  憮然としている李豊を横目に、小敏と玄紀は自分たちの見たモノについて考えるばかりだった。

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