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第2話 アイスティーの罠2

 スマホのアラームが鳴った。二十時四十五分。床の汚れを拭き終えたダスターをまとめてバケツに放り込む。ちょうど予定通り、掃除が終わった。  帳簿をつけたら後は帰るだけだが、カウンターの横にある厨房で掃除をしているはずのバイトはさっきから妙に静かだ。  カウンターの流し台で手を洗ってからまくっていたワイシャツの袖を下ろし、ワインレッドのエプロンを外した。バケツを片手に厨房を覗くと、ちょうどグラスを手に持った千秋と目が合った。 「あ、土野さん。アイスティー作りました。味見お願いします」  にっこりと爽やかな笑みで差し出してきたグラスにはアイスティーが三分の一ほど入っている。  ちらりと見ると、厨房の掃除はすでに終わっているようだ。今日、千秋が出勤してきたときに仕込みも覚えたいと言うからレシピを渡した。手が空いたら作って試飲していいと言っておいたがさっそくやっていたようだ。  熱心さには感心するが、 「あ、手が塞がってますね。じゃあ、口移しで」  ニコニコしながら右手に持っていたグラスからひとくち飲もうとする。千秋が口をつける直前で俺はグラスを奪った。 「塞がってない。これ、洗濯機に入れてくれ」  バケツを千秋に押しつけた。  千秋はいたずらが不発に終わった子どものように口をとがらせたが、素直にバケツを持って厨房の奥にある倉庫へ向かった。  三か月前、バイトで雇うか交際するかの二択を迫ってきた千秋虎景(ちあき とらかげ)は、いまやこの『Cafe檸檬ーれもんー』に欠かせない戦力として育ちつつある。  見た目の爽やかさと丁寧で明るい接客態度はあっという間に常連客の心を掴んだ。さらに、大学の友人だという若者たちを少しずつ呼び込んで口コミを広めて新規客とリピーターを開拓し、店はますます忙しくなった。忙しくなった分だけ千秋がてきぱきと働くから俺自身の負担は増えずに売上だけが増えていく。  だが、隙あらばさっきのようにスキンシップをしようとしてくるのは困りものだ。  あれさえなければ最高のバイトなんだが。  俺は眉根を寄せて、アイスティーの水色を確認した。  濁りもなく濃さもちょうどいい。口に含んで味と香りを確かめる。えぐみはなく、苦みもほとんど感じない。明日からアイスティーの仕込みを任せてもいいレベルだ。 「どうですかー?」  厨房から出てきた千秋は、褒められることを期待しているような顔で俺のすぐ隣へやってくる。肩が触れそうで一歩離れた。 「美味しくできてる」 「やった! じゃあ、これもついでに試してください」  千秋はポケットから棒つき飴のような物を取り出した。 「キャンディシュガー。マドラー付きだからそのまま混ぜられるんですよ」  千秋が包装を剥がすとハート形に固められた白い砂糖が出てきた。 「俺の友達の親がやってる会社で作ってるんですけど、形はハートと丸の二種類。ブラウンシュガーと白いのと、あともっと粒が大きいバージョンもあるんですよ。コーティングに工夫してあるらしくてけっこうすぐ溶けるんです」  千秋は俺が持つグラスの中へハートを入れて、くるくるとかき混ぜる。棒の先端についていたハートは見る間に崩れて溶けていった。 「はい、俺の愛情いっぱいのアイスティー、飲んでみてくださーい」  抜き取ったマドラーをぺろりと舐めて、いたずらが成功した子どものように笑う。  こいつ、これがやりたくてわざわざこの砂糖を仕込んできたに違いない。  俺は呆れながらもひとくち飲んだ。もともと量が少ないところに溶かしたせいでひどく甘い。 「甘すぎる」 「あ、じゃあミルク足しましょう、ミルク」  千秋がカウンターの中へ行って牛乳パックを取ってきた。自分で入れようとしたが千秋は酌をするように牛乳を注ぎ、さっきのマドラーでかき混ぜた。  俺の眉間に皺が寄る。 「それ、さっき舐めただろう」 「あ、やべ」  ぺろっと舌を出してみせるが、完全にわざとだ。こいつはバイトに入った初日からこの調子だった。そもそも雇う気はなかったのだが、なぜか言いくるめられて、気がつくとバイトになっていた。 「作り直します?」  俺の顔色を窺うように小首を傾げるしぐさは実にあざとい。だが、それが不覚にも可愛く見えるのは人並外れて容姿が整っているせいだろう。 「いや、いい」  爽やかさとは対極にある俺の顔はいま険しく歪んでいるはずだ。すれ違う人々を怯えさせ、目が合った子どもを泣かせてきた数え切れぬほどの実績を持つ俺の顔を、千秋は幸せそうに見つめてくる。  この視線にも、最初は違和感と居心地の悪さで落ち着かなかった。しかし、何事も慣れだ。  甘ったるいミルクティーも悪くない味だった。 「もし店で使えるならちょこっと割引してくれるって言ってましたよ。単品で売ってもいいし、なにか限定メニューに使ってもいいと思うんですけど」 「そうだな。まあ、考えてみる。きょうはもう上がっていいから」 「えー、ちょっと一服したいなあ。アイスティーまだちょっとあるから、一杯だけ飲んでいってもいいですか?」 「……一杯だけだぞ」 「はーい」  上機嫌で厨房へ向かう千秋の足取りは実に楽しそうに弾んでいる。  俺は事務室兼更衣室から帳簿を持ってきてカウンターに座った。グラスを持って戻ってきた千秋は当然のように俺のすぐ隣に座り、軽くグラスを掲げて微笑む。 「今日もお疲れ様です」 「ああ、お疲れ」  じっと俺を見る千秋の目から逃げるように帳簿を開くが、視界の端には千秋の笑みがある。落ち着かない。  かと言って、距離を取ったり無理に千秋を帰す気にもなれない。  最初からそうだった。やたらと距離が近いと思いながらも、俺は千秋を突き放せない。  原因は、あの二度目の告白だ。

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