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第8話 アイスティーの罠8
翌日は千秋が休みの日だった。
俺は身についたルーティンをこなし、長年かけて培ったマニュアルどおりの無難な接客で店を回した。満席になる頻度が以前より増えたが、それ以外は俺の心を乱す出来事は一切なく、穏やかで秩序が保たれた営業時間を過ごせた。
千秋がいると、客と話し込んで盛り上がって俺まで会話に巻き込もうとしたり、メニュー以外の注文を勝手に受けて対応しなければならなくなったりで俺のペースがいつ乱されるかわからず、常に千秋の動向に気を配ってしまっていた。だが、千秋がきっかけを作ってくれたおかげで新しい仕入れ先を開拓できたこともあったり、アレルギーの方向けの新メニューが出来て喜ばれたり、いい結果に繋がってもいる。
俺と違って千秋はどこにいってもやっていける人材だ。そんなやつが人の飲み物に薬を盛るなんて常識を無視したような行動にかられたのは、曖昧な態度のまま三か月も過ごした俺にも落ち度があった。
俺のそばにいては千秋の良さをダメにしてしまう。
明日、千秋が来たらきちんと話し合おう。
そう思っていたのだが、閉店する二十一時間際、最後の客を送り出したのと入れ違いに千秋が店にやってきた。
「土野さん、ごめん、ちょっとだけいい?」
ドアを開けたまま、しきりに後ろを気にしている。
「ああ」
うなずくと、千秋はほっとしたようにドアを閉めてカウンターへやってきた。
「こんな時間に、ごめんね」
なんだか疲れたような顔をしている。
「なにかあったのか?」
「ちょっと面倒な子がいて、今日一日追い回されて疲れた」
女だろうか。前も一度、千秋のサークル仲間だという女の子達で席が埋まったことがあった。
見た目が良くて気配りができてマメな性格だ。モテるのは間違いない。執着する子もいるのだろう。
「ストーカーか?」
「うーん、今までは学内だけだからまだそこまでじゃなかったんですけど。今日は駅で見かけちゃって。ここまで遠回りして撒いてきたつもりだけど、ちょっと様子見したくて」
「そうか。夕飯は、食べたのか?」
「まだ。あ、でも帰ったら適当に食うから」
「少し食べようと思って賄い作るところだったんだ。ついでだから、食べていけ」
「いいの? じゃあ、お言葉に甘えます」
ぺこりと頭を下げて、嬉しそうな笑みを見せた。
せめて飯代分は手伝うと言う千秋に客席の掃除を任せ、余ったポテトサラダとツナを使い和風ラザニアを作った。
「できたぞ」
「わー、すげーうまそう!」
カウンターに並んで座り、食べ始めた。
「俺、ここでバイト始めてから太ったんですよ、飯がうますぎて。土野さん、毎日こんなうまい飯食ってなんでそんなに痩せてんですか?」
「一日の活動に必要なカロリーだけを摂っているからだ」
「毎日計算してるんですか?」
「食材のだいたいのカロリーを把握して組み合わせているだけだ」
「へえ、やっぱりきっちりしてる」
楽しそうに笑う千秋に俺も気分が良かった。
幼い頃から時間やルーティンを決めて行動するのが好きだった。予定が変わると落ち着かずに不安定になることもあり、俺は自分のルールを守ることに固執してしまうことが多かった。
そのせいか、周りから奇異の目で見られることもあった。
だが、千秋は俺のそんな癖も笑って受け入れてくれる。
本当にいいやつだ。俺なんかに構っているせいで道を踏み外させてはいけない。
俺は千秋が食べ終えるのを待って言った。
「千秋、昨日のことなんだが」
すっと千秋の顔から笑みが消えた。うつむいた横顔は緊張しているように見えた。
「あんな事、二度とやるなよ」
「……はい」
バイトにも、もう来なくていい。
そう続けようとしたが、うつむいていた千秋が顔を上げて俺を見つめた。目が合った瞬間、言おうとしていた言葉が霧散した。
千秋の目は必死に俺を見ていた。
――いまはただそばにいたいんです。
三か月前に聞いた言葉が頭に浮かんだ。
頭に浮かんだ千秋の言葉が胸の奥に響いた気がした。
千秋の思いがまるで自分のもののように感じた。
そばにいたい。
千秋ともっと一緒にいたい。
不意に湧き上がった思いに弾かれたように俺は立ち上がった。
「……何か入ってるんじゃないかと心配しながらじゃ、まともに味見ができなくなって困るからな」
千秋が目を見張る。まじまじと俺を見る目に期待の色があった。
俺はつい目を逸らした。
「片付けはやっておくから、もう帰ったほうがいい。明日は午前中の講義があると言っていただろう。早く帰って寝なさい」
「……俺、またバイト来ていいの?」
探るような声で千秋が言った。俺はそっけなく答えた。
「客が増えたのに辞められたら、困る」
千秋の前にある食器を取ろうとしたら、千秋が俺の腕を掴んだ。
「でも、なんで? 俺、あんな事したのに」
千秋は期待と不安の目で俺を見ていた。
俺は逃げ出したくなったが、ここで逃げては今までと同じだ。千秋はこの三か月、何度もこの目で俺を見ていた。
きちんと答えてやらなければいけない。
「やったことはどうかと思うが、気持ちは……、俺を思ってくれる気持ちは、……嬉しい」
最後の一言は掠れてしまったが、しっかり聞こえたらしく千秋の手に力がこもる。目が嬉しそうに輝いていた。
「それって、俺と……」
急に体が熱くなった。俺は千秋の腕を振りほどき、
「つ、つきあっても、いい」
背を向けてそう言った。
耳が熱い。頬も、赤くなっている気がする。
千秋が背後から俺を抱きしめた。持っていたグラタン皿を落としかけた。
「やった……っ」
俺の背中に顔を押しつけた千秋の小さな声は、溢れんばかりの喜びに満ちていた。
千秋の喜びが俺の中にまで浸み込んできたように感じた。
胸の中に温かいものが満ちていく。
ふわふわと体の輪郭が溶けて千秋と混ざってしまったような、不思議な感じがした。
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