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第4話 禁断の扉

 朝の気配に頬を撫でられ、康太はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。ベッドの上、部屋の隅、どこを見回してみても寝室には康太ひとりきりだ。康太はふと不安になった。だがベッドから起き出すことが出来ない。もしかするとその不安は、幼い頃からずっと康太に纏わり付いてきた影のような存在なのかも知れない。  康太は胸元のシーツを掴み、鼻のあたりまで被った。その仕草は昔から彼の癖だった。  どこからか美味しそうに焼けたベーコンの香りが漂ってくる。きっと亮はキッチンだと康太は理解し、ようやく安心した。腰から下には重い気怠さが残ってはいるものの、康太の頭はすっきりとしていた。  ふとシーツが乳首に触れて、康太はビクンと上半身を強張らせた。明け方近くまで続いた亮の愛撫の激しさを思い浮かべ、康太は思わず股間を膨らませた。 「元気だな、コータは」  不意に静寂を引き剥がされ、我に返った康太は亮の顔を見つめ、頬を赤らめた。そして康太は自分の股間を押さえつけた。  康太の素直な反応は亮にも伝わっていった。裸にエプロン一枚の亮の股間も、薄い生地を思い切り持ち上げていたのだ。 「コータ」  亮はエプロンを脱ぎ捨て、康太と自分を僅かに隔てる薄いシーツを捲りあげ、康太の上に跨った。そして顔を背けた康太の横顔から唇を盗み取った。 「ん、んーっ」  抵抗の言葉までも亮の唇に絡めとられ、康太は眉間に浮かべていた困惑までも剥ぎ取られた。甘く甘く、切ないまでに甘い情動が二人を飲み込んでいく。 「お楽しみのとこ、わりーんだけど。寝かせてくれないかな?」  亮と康太は動きを止めた。暑いほどだった部屋の温度が一気に下がるような空気が流れた。寝室の戸口に、康太の見知らぬ男が眠たげに、金色の髪をかきあげながら立っていたのだ。  そのあと、どうやって部屋を出てきたのか康太はよく思い出せなかった。むしろ思い出したくないとさえ思った。 (亮は僕を騙したの?)  あり得ない事態に、康太はすっかり動転していた。 (亮は僕のことを好きだと言った。なのに他にも好きな人がいたなんて、やっぱり僕は騙されたんだ)  康太の瞳に大粒の涙が溢れた。すれ違う人が怪訝な顔つきで見つめ返してきても、気に留めることなく涙を零した。  いくら手の甲で目を拭っても、涙は康太の心から溢れ出し、止めることが出来なかった。  ひとつの事に気を取られ、思考が一方向へばかり向かってしまうと時間の経過がわからなくなるものだ。悩みに囚われた心には、時間は刻んでおけないのかも知れない。康太は水面を漂う小舟に揺られているかのように、まるで時間と時間の狭間に取り残されているようだった。  自分の部屋のベッドに放り出されたスマホが小刻みに震える。気が付くと外は暗くなり始めていた。康太はゆるゆると手を延ばし、スマホを手に取った。  画面は亮からの着信を表示していた。指先で画面を軽く撫でる。 「コータか? 何度も電話したのに。今どこにいる?」  康太は結局、亮の誘いに抗えなかった。  亮のいるマンションを下から見上げる。そこには亮がいる。だがもしかするとまだあの男もいるのかも知れない。そんな思いが、康太の脚を重く地面に縫い付けた。 (やっぱり引き返そうかな)  意味もわからない不安が首をもたげる。 (いや、僕には分かっている。あの男は亮の恋人なんだ。亮が僕を誘ったのは寂しさを紛らわせるためだった。全ては自分の思い違いだったんだ)  だがまた一方の康太が首を横に振る。 (だけど亮は僕を好きだと言った。あの時の言葉は嘘だとは思えない。きっと僕の思い過ごしで、亮は僕をまた優しく迎えてくれる)  果てしなく繰り返される自問自答に区切りをつけるために、康太はまたここに来たのだ。 「コータ、待ってたよ」  康太が驚いて振り返ると亮が立っていた。いつからそこにいたのか、康太は全く気づかなかった。 「……亮とちゃんと話さなきゃいけないと思って」  康太は亮の顔を真っ直ぐにみることが出来なかった。 「わかってるよコータ。部屋へ行こう」  亮はそっと康太の手を取った。だが康太の両脚は地面に根を生やしたように動こうとしなかった。 「初めに聞いておきたいんだ。あの人は誰なの? 亮の恋人?」 「先輩だよ。康太も知っているだろ? サッカー選手の蕪木一郎だよ」 「え? あのドイツに移籍したJリーガーの蕪木先輩?」  康太の胸が僅かに高鳴った。蕪木は高校生の頃にサッカーに明け暮れていた康太たちには憧れの先輩だった。髪の色も違っていたし、あの時は気持ちが動転していて気付くこともなかった。 「先輩にちゃんと紹介するから」  康太は迷った。  まだ亮からの答えは聞いていない。だけど相手はあれほど憧れた蕪木一郎なのだ。会いたくない訳がない。 「亮の部屋に……いるの?」 「コータを待ってるよ」 「ええっ?」  玄関を入ると、手前の部屋からガチャガチャと金属が触れ合う規則的な音がした。康太がその扉を見つめていると、不意に亮の顔が近付いてきた。康太は反射的に顔を背けた。朝のベッドで亮に顔を背けた時とは心の居場所が違っていた。 「やっぱりコータは気にしていたのか」 「やっぱりって、気にしてない訳がないだろ?」  康太の語気は自分自身が思っている以上に強かった。康太は拗ねたように俯いた。 「ごめんコータ。でもコータの思い過ごしだよ」  康太は正面から亮の顔を見据えた。まるでその整った顔に、嘘なら見抜いてやると言わんばかりの強情を貼り付けて。 「なんだよコータ、怖い顔だな」 「僕に嘘をついても無駄だからね。全部わかるから。嘘を言っているかそうじゃないか」 「わかっているならキスさせろ」  康太の顔からほんの一瞬だけ強情が剥がれ落ちそうになる。 「まだダメ。ちゃんと説明を聞いてからじゃなきゃ。何で先輩はいきなり亮の部屋に入ってこれたの?」  亮の後ろにある扉がすっと後ろに引かれ、蕪木一郎の顔が現れた。 「ここ、俺んちだから」  滴り落ちるほどの汗をタオルで拭き取りながら、息を荒くしたままの蕪木は笑顔で康太を迎えてくれた。彼は専用の部屋でトレーニングをしていたようだった。  本来ならば康太はそれだけで有頂天になっていたことだろう。だがそれには少し事情が複雑すぎた。  確かに昨夜は亮と一夜を共にした。お互いの気持ちを確かめ合うように、身体を求め合った。だが何らかの約束を交わした訳ではない。いやそんな約束をするよりも前に、二人の前に蕪木一郎が現れたのだから。  亮はキッチンに立って夕食の支度をしていた。テーブルにつき、椅子に腰掛けた康太の向かいには、シャワーを浴びてすっきりとした顔つきの蕪木が座った。 「さあ康太くん、乾杯だ」  シャンパングラスを差し出されて、康太は視線をキッチンとテーブルの交互に走らせた。 「コータ、気にするな。いつもこんな感じだから。俺は作りながら飲んでいるからさ」  亮の一言に、康太は少し安心したような笑顔を零した。康太の正面からは、あの蕪木一郎が満面の笑顔を投げかけてくる。康太は悪い気はしないものの、全てを任せたままの亮に申し訳ない気持ちもくすぶり続けていた。  それは康太がまだ知らない大人の世界の入口に過ぎなかったのかも知れない。  康太がまだ知らない世界。それは物音もたてず、すぐそばで扉を開け放ち、康太を待ち構えていた。

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