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第30話

 一年は365日と決まっているのに、大人になればなるほど、日々の過ぎ去り方が早くなったと感じる。真嗣にとっても、今年は特にそうだった。  昨日、『さくら』のみんなから惜しまれながら、会社を後にした。引っ越すギリギリまで働いていた。今日一日かけて荷造りや片付け、掃除をして、ようやく終わったのは、夜の八時を回った頃だった。ヘトヘトにはなったが、あれこれと余計な思いに囚われなくていいのは助かった。ダンボール箱が積み重なっている部屋で、コンビニで買ったサンドイッチと缶コーヒーの晩ご飯を済ませた。明日の朝、引っ越し業者が来て荷物を運ぶと、大学生の時から世話になったこの部屋ともお別れだ。最後にシャワーでも浴びようと思った時、家のチャイムが鳴った。隆也だった。  隆也とは、一昨日、最後の見送りはできないからと、『松峰』で思い出話しをしながらゆっくりと飲んだ。互いにしめっぽくなる話しはよそうと言って、最後まで笑って、そして別れた。 「ごめん。やっぱりきちんと挨拶しておきたくて、少しだけ、いいか?」 「あぁ、もちろん。ダンボールだらけだけど、入って」 「本当だ…」  隆也は積み重なったダンボール箱を見て、真嗣が本当に実家に戻ることを改めて実感したようだった。 「これ…軽く一本だけな」  そう言って、隆也はコンビニの袋から缶ビール二本を出した。 「つまみはなしかよ」  真嗣は笑いながらビールを開けた。隆也は何かに勢いをつけようと一気に飲んだ。その顔に笑いはなく極めて真面目な表情だった。 「…真嗣、今まで本当にありがとう。お前と出会えて本当によかった」 「なんだよ。そう言うのはなしにしようって、一昨日言ったばかりだろ」  真嗣は笑顔を保とうとしていた。 「あのコンペの時、お前がいなかったら俺はやけになって、何をしてたか…今思うとぞっとする。お前が支えてくれたから、俺はまたデザイナーとして大好きな服飾に向き合うことができた」 「俺だって、お前には感謝している。吉嗣が死んだ後、人として正しい方へ導いてくれた。辛くても逃げずに向き合うように、お前は俺の背中を押してくれた。お前がいなかったら、俺どころか、高倉酒造はバラバラになってたよ、隆也」  隆也はうっすらと笑みを浮かべた。 「なぁ、真嗣…俺達は、お互いの人生で必要な人だったんだな」  真嗣は思った。俺達の関係はもうすぐ過去になる。実家を継ぐことを決めた時から、そうなることはわかっていた。あの、結婚式を挙げた後は諦めと一緒に今日まで少しずつ思いを心の奥底に押し込めてきた。なのに、こうして今、隆也を目の前にすると、揺らぎはじめる。押さえきれない。  真嗣は大きく息を吸って、隆也を見た。 「隆也…俺はお前と一緒にブランドを立ち上げたかった。俺は一生お前を支えたかった。ずっとずっとお前の傍にいたかった。正直今も…そう思ってる」    真嗣はもし今、隆也が行くなと言ってくれたなら、その瞬間全てを投げ打つ覚悟はあった。いつの間にか真嗣の頬には涙が流れていた。 「隆也…俺は…俺は…お前のことが…」 「真嗣。お前の気持ちはわかってる。いや、わかってた。でもな、真嗣、お互い今はそれを言う時じゃない。なぁ?…わかるだろ?」  隆也は真嗣の涙だらけの両頬を手のひらで包み、真剣にそして優しく見つめた。 「真嗣…俺達…夫婦なんだから…な」 「…そうだよな」  隆也は真嗣の顔を自分の胸に押し付けた。真嗣の髪に頬を擦り寄せながら、子供をあやすように真嗣の背中をポンポンとたたいた。 「真嗣。俺もお前と一緒にいたかったよ」  隆也は真嗣をぎゅっと抱きしめた。    しばらくすると、隆也は真嗣に向かって意外なことを言った。 「なぁ、真嗣。指輪ちょっと外して」 「なんでだよ…絶対いやだ」 「ちょっとだけだから、ほら」 「外した後、お前がまたはめてくれるんなら…ちょっとだけだぞ」 「お前、案外面倒くさいな」 「うるさいよ」  隆也は真嗣の左手を持って、薬指の指輪を外した。真嗣はこれ以上ないくらいの心配顔になった。隆也は自分のズボンのポケットに手を突っ込み、中から白金のチェーンを出した。そして外した指輪にそのチェーンを通すと、真嗣の首に手を回してチェーンの金具を留めた。 「これから先、お前は色々な仕事をすることになるだろ?指輪を外さないといけない時もあるかもしれない。お前のことだからさっきみたいにグズグズ言うに決まってるだろうし、ひょっとしたら指輪を無くしたなんてこともあるかもしれない」 「万が一外したとしても、失くすわけないだろ」  真嗣はムッとした。隆也は真嗣のTシャツの襟元に指を掛けると、チェーンに通した指輪を胸元の隙間に落とし入れた。 「なっ?…こうしとけば、いちいち外さなくてもいいし…それに、薬指より近いだろ、ここに」  そう言うと、隆也は真嗣の左胸に手を当てた。真嗣は頷くと、小さな声で、ありがとうと言ったが、少し納得できずに 「じゃあ、お前は、どうすんだよ」 「俺は仕事で外すことはないし大丈夫だけど…」  隆也はシャツの第二ボタンを外して、胸元の真嗣より短めの白金のチェーンを見せた。 「お揃いだから…な」   真嗣は隆也の優しさが嬉しかった。さっきとは違う種類の涙が、また頬を濡らした。 「お前、泣き虫だな」 「うるさいよ」  隆也は、じゃあそろそろ、と言って立ち上がった。 「真嗣、体に気を付けてな」 「隆也、ありがとな…俺、頑張るわ、絶対。だから…だから…俺はお前と過去形になりたくない。なぁ…俺達、またな、でいいだろ?」  隆也は真嗣を見ることなく、あぁ、と返事をした。そして、玄関で靴を履くと、真嗣に自分が出たらすぐに鍵を締めろよ、と言った。 「隆也、またな…また…な」  隆也は不自然なほど一度も振り向くことなく、軽く手を挙げて玄関を出た。梅雨時期の湿り気を含んだ空気を感じながら隆也は静かにドアにもたれた。そしてドアの鍵がガチャっと施錠された音がした。  隆也の頬にはいく筋も涙が流れていた。

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