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第1話 鬼上司とポメラニアン(5)
「ん? あー、ちょっと待ってて」
羽柴は腰を上げて、オフィスを見渡した。
おそらくは排泄がしたいのだろう。処分予定の新聞紙と、アルコール除菌のウェットティッシュを手にして戻る。
「っと、ペットシーツじゃないとわからないか。ワンツー、ワンツー」
新聞紙を壁沿いにつけて敷いてやり、今度は優しく声をかけることにした。
ポメラニアンは新聞紙の上に移動したものの、なかなか踏ん切りかつかないらしい。
「ワンツー、ワンツー。ほら、おしっこしていいよ?」
ワンツー、と排泄を促すコマンドを繰り返す。
根気強く続けるうちに、もじもじとしていたポメラニアンもようやく折れてくれた。ちょこんと腰を下ろし、新聞紙の上に黄色い染みが広がっていく。
「うん、上手におしっこできたね! Good boy 」
用を終えたところで、すかさず頭を撫でてやる。
と、そのときだった――目の前にいたポメラニアンが、瞬く間に姿を大きく変えたのは。
「え……」
羽柴はぎょっとした。そこにいたのは犬飼だったのだ。
それでいて、どういうわけか全裸で。顔を真っ赤にさせ、目にはうっすらと涙さえ浮かばせている。
「いぬかい、主任?」
こちらがあまりに衝撃的な光景に呆然としていると、犬飼はますます顔を染め上げていく。そうして、わなわなと唇を震わせて言ったのだった。
「すまない。少し席を外してくれないか……服を、着たい」
「は、はい! 失礼しますうッ!」
羽柴は弾かれたように立ち上がり、一目散に資料室から出ていく。勢いよくドアを閉め、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
(嘘だろ? さっきのポメラニアンが、犬飼さんだったなんて)
まさか、そんなのありえない話だ。
だが、この目で見た光景をどう説明したらいいのだろう。混乱した頭を必死に整理しようとするも、うまく思考がまとまらない。
(それに、あの甘い香りって……まさかSubの)
ドキドキという胸の鼓動を感じながら、羽柴は熱くなった顔を手で覆う。
今はすっかり薄れているが、遅れて本能的なもので察した。あの甘く香っていたのは、まさしくSubが放つフェロモンだと。
状況的に考えて、犬飼がそうとしか考えられないが――いけない、ついに頭がパンクした。
(つ、つつつまり俺は! 上司におしっこを強要したってことでは!?)
頭がくらくらとする。自分でも何を考えているのかわからない。
そのうちにも資料室のドアが開き、着替えを終えた犬飼が声をかけてきた。
「羽柴、もういいぞ」
名を呼ばれた羽柴は我に返り、慌てて立ち上がる。
「あああっ、あの! 犬飼主任はフワフワ可愛くてSubでおしっこをされていてっ!」
「ひとまず落ち着け」
犬飼はしかめっ面で、羽柴の額を小突いてきた。それから、横を素通りしてデスクチェアに座ると、独り言のように呟く。
「こんな情けない姿、見られたくなかった」
「も、申し訳ありません」
「謝らなくていい。事故のようなものだし、君を責めるつもりはない」
「……よければ、事情を聞かせてもらってもいいですか? なんだか夢でも見ているようで、全然頭がついていかないっていうか」
遠慮がちに尋ねれば、犬飼はわずかに眉尻を下げた。眉間を軽く押さえながら息をつく。
「君が言うように、俺はSubだ。そして――」
「………………」
ごくり、と羽柴は生唾を飲み込んで、言葉の続きを待った。
犬飼がゆっくりと口を開く。それは――あまりにも信じがたい話だった。
「俺の家系は代々呪われている……犬に」
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