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第4話 甘酸っぱいデートと波乱(8)
自己嫌悪に陥りつつ、ひとまず犬飼の肩を掴んで距離を取る。身なりを正して、ティッシュペーパーを手に取ると、口元をそっと拭ってやった。
「羽柴?」
「こんなことがしたいわけじゃ、なかったのに。俺、犬飼さんに酷い仕打ちを――」
「な、何を言っているんだ?」
言っている意味がわからない、とばかりに犬飼が目を丸める。
羽柴はぐっと奥歯を噛み締めて、己を鎮めようと必死になっていた。こうしている間にも、欲望はむくむくと首をもたげようとし、これ以上の接触は危険だと思えてならなかった。
「ごめんなさい、あとでちゃんとお詫びしますから。今は……頭を冷やす時間をください」
「おい、羽柴っ!」
背後から追いかけてくる声にも耳を貸さず、羽柴は足早に部屋を後にする。
エレベーターに駆けこんだところで、ずるずると壁に寄りかかり、情けなく頭を抱え込んだ。
「くそ……っ」
このようなことで自覚などしたくなかった。
犬飼が好きだ。敬愛を超え、特別な相手として――。
ただし、自分が知っている恋愛感情のそれとは違う。
支配したい。独占したい。……相手のすべてを暴きたい。
そんな衝動が湧き上がるとともに、羽柴は己の〝第二の性〟に恐れをなした。
(絶対に間違ってる。好きな人に、酷いことなんてしたくないのに……どうして俺は)
唇を強く噛み締める。血が滲んだのか、鉄臭い味が広がったが、今は気にしていられる余裕などなかった。
そうしてエレベーターのドアが開くと、羽柴は逃げるようにマンションを後にしたのだった。
◇
翌日を迎え、羽柴は重い足取りで出社した。
昨夜は一睡もできず、ひたすらに後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。今朝にしたって気分は最悪で、犬飼にどう詫びればいいのか、そればかりが頭を占めている。
(あれから犬飼さん、どうしてただろう。……ああ。また逃げ出したくなる、けど――)
けれど、会って話をしなければならない。
もちろん謝罪が最優先だが、自分が犬飼のことをどう思っているのかも伝えたかった。でないと、前になど進もうにも進めないのだから。
羽柴は覚悟を決めて、オフィスへと足を踏み入れた。
「おはようございます」
と、挨拶とともにフロア全体を見渡すのだが、犬飼の姿が見当たらない。いつもなら、始業時間の三十分前には出社しているというのに妙だ。
その嫌な予感は的中し、朝礼の時間になっても、犬飼が現れることはなかった。
「すみません。犬飼主任は……その、欠勤でしょうか?」
羽柴の問いかけに、皆一様に何とも言えない表情を浮かべた。ややあって、一般職の女性社員が口を開く。
「それが、電話にも出ないんですよ。さっきから何度もかけてはいるんですが」
「……え?」
思わぬ事態に、羽柴の頭は真っ白になったのだった。
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