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最初で最後(1)

 長崎鼻から20分ほど車を走らせたところに、宿泊する予定のホテルがあった。  岬を間に挟む形で、開聞岳とは反対側の半島の東の端にある。こちらも海に面していた。 『ホテルはできれば僕だけでも、民宿とかビジネスホテルみたいな、あまり高くないところがいいです』  と事前にお願いしていたのだが。  純和風の、趣のある外観で、明らかに高級そうな旅館だった。  出世払いでいいと言ってくれたけど、飛行機代と合わせたら、僕の役者としての給料ひと月分でも到底足りない気がする。  どうしよう……。今から断っても、キャンセル料がかかるよな?  それに、真冬の今は車中泊は難しいし、近くで都合よく安宿が見つかるとも思えない。  僕が助手席で考え込んでいる間、珍しく三間(みま)も、車を停めた後すぐに降りようとはしなかった。  こちらに向けられた顔が、言葉を探すように視線を泳がせている。 「名前……」 「……へ……?」   「苗字で呼ぶと、俺たちってバレるかもしれないから、旅館の中ではお互いに下の名前で呼ぶってことでいいか?」  三間が、センターの小物置きに置かれていたフチなしの眼鏡を取り、それをかけてマスクをつける。変装用の伊達眼鏡で、資料館でも、展示物を見て回っているときはサングラスではなくそれをかけていた。  サングラスではなく伊達眼鏡にしたのは、あまりガラが悪いと宿泊を断られるかもしれないからか。それに、旅館と言えば浴衣だろうし、浴衣にサングラスは不自然だ。  下の名前で呼ぶのも身バレ防止のためだと、遅れて理解する。 「じゃあ、『ハル』って呼んだらいいですか?」  あまり考えずにそう言ってしまったのは、一度目の人生の所為だった。 『じゃあさ、下の名前で呼んで』 『呼び捨てがいい』  耳元で囁かれたその言葉が、強烈に記憶に残ってしまっていたから。  今回も、『ハル』と呼んでほしいのではないかと。  安易に、思ってしまった。  眼鏡の奥の切れ長の眼が軽く見開かれる。一瞬眉根を寄せた表情は、『苦々しい』という言葉がしっくりくる。  直後、その目はあからさまに逸らされた。 「普通は『さん』付けだろ」  声には険はなく、軽い調子だったけど。  ――やってしまった。  そう思った。  あのとき、『呼び捨てがいい』と言われたのは、僕がオメガだったからだ。あの瞬間だけは、あの人の……、佑美(ゆうみ)さんの、代わりだったから。  フェロモンを出していない普段の僕なんて、佑美さんの代わりになりようがないんだから。彼女の真似をして呼んでも、ただの礼儀知らずになるだけだった。  血の気が引くように、今日一日でかなり近づいたかに思えていた彼との距離が、すーっとまた元の位置まで戻っていくのがわかる。  距離を詰めない方がいいと頭ではわかっているのに。どうして毎回油断してしまうのだろう。 「じょ、冗談ですよ! 大先輩を呼び捨てにするほど、調子に乗ってませんって! ちゃんと『ハルさん』って呼びますよ!」  ――嘘だ。  調子に乗っていた。  今日一日、三間に優しくされて、まるで恋人になったような気分でいた。  気持ちとは裏腹に、あははは、と乾いた笑い声をあげる。  三間が嫌がるそぶりを見せたのは一瞬だけで、別段気を悪くした様子はなかった。 「俺が『ハル』なら、お前は『ナツ』でいいか?」 「あ、はい。それでお願いします」     三間の目を見ることはできず、シートベルトを外しながら答える。  僕の中に燻る邪な気持ちは、彼の親切に対する裏切りに他ならない。  自己嫌悪が完全に消えるまでは、外で頭を冷やしたい気分だった。

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