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最初で最後(2)

 いつものように、三間から半歩下がった位置を歩き、旅館のエントランスへと向かう。  建物は7~8階くらいありそうな立派なコンクリート建てだが、その手前のエントランスは瓦葺きの和風の造りになっている。  自動ドアをくぐると広々としたロビーで、外観から予想した通り、中も和モダンな雰囲気だった。絨毯敷の広い廊下の脇にガラスケースがあり、骨董品らしき壺や書画が飾ってある。新鮮な木の香りが漂っていて、廊下の奥にはソファとテーブルが並んだラウンジと、ガラス張りの中庭が見えた。  ソファの一つに腰かけて、三間(みま)がフロントで受付を済ませるのを待つ。  ラウンジの窓の向こうには、海が広がっている。テラスもあって、海岸に降りられるようになっているらしい。  水平線に夕焼けの名残を残し、穏やかな海に夜の帳が降りようとしている。  ぼんやりとそれを眺めていたら、右手から声がした。 「ナツ」  顔を向けると、仲居さんらしき和服姿の年配の女性と三間がこちらに近づいてきている。  二人は僕が座っているソファの横で足を止めた。 「このたびは当旅館にお越しいただき、ありがとうございます」  仲居さんが深々と一礼する。 「ウェルカムドリンクでお抹茶のサービスがありますが、奥様にもお抹茶をお出ししてよろしいですか? かわりのジュースもございますが」    顔を上げた仲居さんに訊ねられ、目が点になった。  聞き間違いでなければ。いま、「奥様」と言われなかったか? 「二人とも抹茶でお願いします」  口を「え?」の形に開けたまま固まっている僕に代わり、三間が答える。仲居さんは一旦ロビーの奥へと消え、三間が荷物を置いて僕の隣に腰を下ろした。 「えっと……、いま……、僕、何か空耳が聞こえたみたいで……。奥様って聞こえた気がするけど、聞き間違いですよね?」  「間違いじゃない。お前のことは、俺の嫁ってことにしてあるから」  悪びれる様子もなく、三間が答える。 「は……」  はあああ!? と大声を出しそうになって、三間の手に口を塞がれた。  な、なに言ってるんですか!? と言ったつもりが、口を塞がれているから、ふがふがという声にしかならない。 「食事は食事処で食べるのが原則だから、嫁のつわりが酷いから部屋食にしたいつって、特別に部屋食にしてもらったんだよ。食事処は完全個室じゃないらしいから、顔見られる可能性があると思って」  確かに、他の利用客に気づかれたら、勝手に写真を撮られてSNSに上げられる可能性もある。元々オメガなんだから、『嫁』で『妊婦』と言われたら、従業員はそれを信じるだろう。  でも、だからって――。  僕が大声を出さないとわかったからか、三間が口を塞いでいた手を離した。 「そういうことは事前に言ってくださいよ!」  声は潜めたが、顔は思いっきり彼のことを睨みつけた。 「車の中で話そうと思っていたんだが、お前が……」  僕が? 三間のことを『ハルって呼んだらいいですか?』なんて言ったから、言い損ねたのだろうか。  言いかけた言葉を途中で飲みこみ、三間は軽く首を横に振った。 「……すまん。100パー、俺が悪いな。勝手に嫁にして悪かった」  ……いや、別に……。嫁にされたのが嫌だったわけではなく……。  神妙な面持ちで謝られると、文句を言ってる自分が大人げない気がしてくる。 「あ、いえ……。ちょっとびっくりしただけで……。三間さんは色々考えてそうしてくれたのに、文句を言ってすみませんでした……」 「『ハル』な」  たしなめるように言い、三間が片頬を上げる。  『三間さん』と呼ぶたびにそう言って訂正されたあの夜を、また思い出してしまった。  佑美さんと同じ呼び方をするのは嫌がるくせに、妻のふりをしろと言う。  彼は何も悪くないと頭ではわかっていても、三間の大馬鹿野郎! と、心の中で文句を言わずにはいられなかった。    二人分の抹茶と茶菓子を盆に載せて仲居さんが戻って来て、ようやく、ほっと肩の力を抜く。  夕食時で周りには他の利用客がいなかったので、マスクを外して旅館のおかみが立てたという抹茶を頂いた。  仲居さんは僕たちの正体に気づいた様子はなく、安産祈願で有名らしい近くの神社の話をし始めた。  ……そう言えば。妊娠中はカフェインの接種を控えるようにと、一度目のとき産婦人科からもらった手引書に書いてあったっけ。  抹茶に息を吹きかけ冷ましながら、『奥様もお抹茶でよろしいですか?』と訊かれた理由に思い至った。    せっかく妻のふりをするのなら。子供のことを考えてカフェインを我慢する、良き妻のふりをすればよかった。  初めて飲んだ抹茶は、やけに苦く感じられた。  

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