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オメガならよかった(6)
稲垣が気持ちを持ち直したからか、仕切り直しで行われた午後の撮影は3テイク目に監督のOKをもらえた。
午前中と打って変わって安堵の空気が漂う中、食堂のシーンの撮影の続く主要メンバーを残し、ほとんどの役者は6時には撮影が終了になった。もちろん、三間も居残り組だ。
この時間なら、ジムでひと汗流してからスーパーで買い物をし、三間のマンションに行けばいい。
駅まで稲垣と一緒に帰る流れになり、頭の中でそんな算段を立てながら連れ立って撮影所を出た。
撮影所を出てすぐのことだ。
「諒真」
脇道からふいに男が現れて、声をかけてきた。
男は指に挟んでいたタバコを地面に落とし、靴底で火を踏み消す。足元には他にも吸い殻がたくさん落ちているので、しばらく前からここで待ち伏せしていたらしい。タバコだけでなく酒の匂いも漂わせていた。
40代後半くらいの男性で、その年代の人にしては背が高い。着ているものは、着古し、皺の目立つジャンパーとジーンズで、冴えない中年オヤジといった雰囲気だった。目鼻立ちは彫りが深く整っていて、大型犬を彷彿とさせる黒目勝ちの大きな二重の目が、稲垣とよく似ている。
年齢からして彼の父親だろうと、すぐにピンときた。
顔の造形はいいから、ちゃんとした格好をして髪型と無精髭を整えたら、芸能界にいてもおかしくなさそうに思える。そう言えば、顔合わせ前に共演者のプロフィールを確認しようとネットを漁っていたとき、稲垣の父親が舞台俳優だと、どこかの記事で読んだことを思い出した。
今は「俳優」の見る影もないけれども。
足を止めた稲垣は、自身よりも少しだけ背の低い男に、まるで虫けらでも見るような冷ややかな眼差しを向けている。
「夏希、ごめん。先に帰ってもらってもいいかな?」
稲垣の不穏な気配が心配だったが、相手がちょっと怪しげな見た目の人なだけに、会話を聞かれたくない気持ちもわかる。
「あ、はい。では、お先に失礼します」
稲垣と男に軽く頭を下げ、立ち去ろうとしたところ。
「こいつ、お前の女か?」
声と共に背後から急に腕が伸びて来て、首に巻きつけられた。引き寄せられる形で体を背後から抱き留められる。耳元に、男のヤニと酒の混じった臭い吐息を感じた。
一瞬堰き止められた気道が開放されると同時に、ゴホゴホッと咳が出る。
「やめろ! そいつは男だぞ!」
「でもオメガだろ? 俺の女が発情期 のときは、お前にも貸してやったことあっただろ? また三人でするか?」
下卑た笑いを含んだ男の言葉に、嫌悪で背筋がゾッとする。
「そいつはベータだ」
言葉も発せられず完全に固まってしまっている僕に代わり、稲垣が答えた。
「こんな可愛 い子ちゃんなのに、ベータなのか? 確かにオメガの匂いはしねーな」
頬をかさついた指で撫でられ、首筋の匂いを嗅がれる。
この男もアルファだと肌身で感じた。気持ち悪いのに、アルファの圧なのか、身動きが取れない。
「やめろつってんだろ!」
稲垣が声を荒げて男の腕を引き剥し、ようやく普通に呼吸ができるようになった。
「金もらいに来ただけだろ。やるからさっさと失せろ」
稲垣は尻ポケットから財布を出し、入っていた札束全てを抜き出すと、男に押し付けた。
受け損ねた一万円札が数枚、はらはらとアルファルトに落ちる。
慌ててしゃがみこんで拾う男をそのままに、僕の手を引いて速足で歩き出した。
見てはいけないものを見てしまった後味の悪さが胸に巣食う。
振り返ると、男はお札を握りしめ、ただぼんやりと虚ろな目で僕たちを見送っていた。
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