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オメガならよかった(7)

 男から離れたところで、稲垣がペースをゆるめる。   「諒真さん、手を……、」  人目があるので離した方がいいのでは。皆まで言い終わるより先に、稲垣がばつが悪そうに自分から離した。  どう声をかけてよいのかわからず、声をかけたほうがよいのかもわからなかった。  暮れかけた陽が、車道に向かって建物の影を長く伸ばしている。日が落ちて、冷え込んだ空気の中を、車の排気音と近くを歩く人たちの話し声だけが、何の意味も成さずに右の耳から左の耳へとすり抜けていく。 「金、下ろしたいから。コンビニに寄ってもいい?」  コンビニの明かりが見えてきたところで、稲垣が沈黙を破った。今まで、彼の口から聞いたことがないような、暗い声だった。  隣を見上げたが、彼はこちらを見ていない。無気力な眼差しが、歩道の先の明かりへと向けられている。 「あ、はい。僕も、何か温かい飲み物買ってきます」  入り口で別れ、稲垣はATMへと直行する。僕は缶コーヒーのブラックとミルク入りの二本を買って、先に店を出た。  まもなくして出てきた稲垣は、財布と、その中には仕舞わずに、一万円札数枚を手にしていた。僕の前に立ち、そのお札を差し出してくる。 「あの、これは……?」  自分より頭一つ分背の高い男を、戸惑いを露わにして見上げる。 「これで、さっきのこと、何も見なかったこと、聞かなかったことにしてほしい」  ――口止め料、ということか。  俳優同士は、一つの作品を共に作る仲間でもあり、役や人気を奪い合うライバルでもある。そのライバルにスキャンダルのネタになるような黒歴史を知られて、金でなかったことにしたいと思う気持ちもわからないでもない。 「さっきのことは誰にも言わないので、それは仕舞ってください。そこの公園で、少し話しませんか?」  コンビニから100メートルほど歩いたところに、住宅街の中の小さな公園がある。  稲垣にとっては、素直に金を受け取ってもらったほうが安心できたのだろう。納得のいかなさそうな顔をしたが、一万円札を財布に仕舞い、僕の後をついてきた。  枯れ芝の公園には、中央に小さな滑り台と、あとはぎりぎり大人二人が座れるベンチがあるだけ。  そこのベンチに腰掛け、二本の缶コーヒーを差し出すと、稲垣はミルク入りのほうを受け取った。彼は指先を暖めるのみで、すぐには飲もうとしない。僕は構わず、プシュっと音を立ててプルを引き、ふーふーと息を吹きかけて少し冷ましてからブラックコーヒーを口にした。  温かな苦みが、冷えた喉を暖め、潤していく。 「うちは諒真さんのところとは逆で……、僕が小学生のときに父が蒸発してからは、母子家庭だったんです」  父親の恋人と、父親と、三人で。さっきの父親らしき男の話から察するに、相手のオメガは流石に母親ではないだろうから、母親とは別居していたか死別したと考えられる。  人によっては、道徳的に嫌悪を感じる人もいるのではないかと思う。稲垣が金を渡してまで口止めしようとしたのも、それが理由だろう。  オメガの発情期(ヒート)にあてられたアルファが性衝動に抗えないことは一度目の人生で身を持って経験しているから、彼に非がないことも理解できた。

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