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オメガならよかった(8)

 稲垣は長身の背を丸め、膝の上に置いたコーヒーに視線を落としている。  目の端にその姿を捉えながら、僕一人が淡々と話を続ける。 「僕が高校生の頃に母が亡くなって……、叔父が後見人になってくれたんですが、金銭的には援助をもらえなかったんです……。就職活動も全滅だったから、母のようにとりあえず美容師免許を取ろうと思いました。でも、普通のバイトでは入学金を用意できそうになくて……。お金を稼ぐために、出会い系サイトで知り合った人と会おうとしたんです」  視界の端で、稲垣が動く。こちらに顔を向けたようだった。  昔話の意図をはかりかねているような。そんな戸惑いの眼差しを横顔に感じる。 「日取りを決めて、会う約束までしたんですが……、その直前に今の事務所の専務にスカウトされたんです。チラシのモデルくらいならすぐに仕事を回せるし、モデル代も日払いでくれると聞いて、出会い系の相手との約束はキャンセルしました。メールには、お茶を飲んで話をするだけでいいと書いてありましたけど、実際に会っていたら、もっと大変なことになっていたかもしれません」  言いたいことを全て話し終えて、稲垣のほうに顔を向ける。薄闇に溶け込みかけた瞳と、至近距離で視線が絡み合った。   「結局、何が言いたいんだ?」 「それは僕の黒歴史なので……、話したら諒真さんの安心材料になるかもと思ったのですが……。もちろん、さっきのことは人に話したりはしませんけど……。僕だけが諒真さんの弱みを知っているのは、不安だろうと思ったので」  父親譲りのくっきりとした二重の大きな目が、瞬きを忘れたように、じっとこちらを見つめている。  真っすぐにその視線を受け止めていると。 「俺は既遂でお前は未遂なんだから、全然釣り合わねーだろ」  呆れを感じる声色で、言われた。 「そう……ですよね。でも、それ以外の恥話だと、ただの貧乏自慢になってしまうので……」  マスコミが食いつきそうな話は、他にもあるにはある。僕がオメガだという秘密だ。  でも、それは黒歴史ではなく現在進行系のことなので、さすがに話す勇気はなかった。 「ありがとう。いいよ。充分だ」  薄暗がりの中で、くしゃりと歪められた顔が、なんだか泣き笑いのように見えた。  稲垣は顔を前方に戻し、缶コーヒーのタブを引いた。少しぬるくなっているはずのそれを口元へと運ぶ。 「昔は……、あんな人じゃなかったんだ…………」  缶を膝の上へと戻し、懐かしさの滲む口調で話し出す。今度は、僕が聞き役に徹する番だった。僕も、彼の視線の先――夜の帳の下りた滑り台へと顔を向ける。

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