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オメガならよかった(9)
「俺が子供の頃は、ただの演劇バカで、芝居のことを話すときは、いつも目がキラキラしていた……。でも、舞台一筋の役者なんて、今時流行らないだろ? それを覚悟してやるんならいいけど、覚悟もないくせにプライドばっか高くて……。舞台で人気が出た役者がテレビに行ったり、タレント上がりの役者が舞台で主役張るたびに、酒飲んで愚痴ばっか言うようになって……。浮気も一度や二度じゃなかったから、いいかげん母親が愛想尽かして、俺が中学のときに出て行ったんだ」
ふっ、と嘆息混じりの苦笑の気配がする。
「親父のところに残るか、母親についていくかは、俺が決めていいって言われた。母親はベータだけど元舞台女優で綺麗な人だったから、こぶつきじゃなければ再婚も十分ありえた。飲んだくれの親父を一人にしておくのも心配だったから……、俺は残ったんだ」
「そう……、だったんですか……」
あとのことは何となく想像できる。
父親が連れ込んだ恋人がオメガで、発情期 が来た場合、抑制剤も持っていないアルファにフェロモンに抗う術 はない。
そして今は、その父親に定期的に金を無心されているのだろう。
稲垣には何も非がないが、マスコミに知られたら、あることないこと書き立てられ、世間の好奇の目に晒されるだろうことは容易に想像がつく。
「お袋は結婚してからは役者をやめてエステの仕事を始めて、自分で店も持って、そこそこ稼いでいたから、俺が大学出るまで、養育費や学費を払ってくれた。お袋のことは今も尊敬してるし好きだけど……。二人は結婚すべきではなかった。親父は、アルファの本能に抗えねーくせに、気持ちはずっとお袋にあって、結局その後もずっと、誰とも番 にはならなかった。さっさと番 を作っておけば……」
苦しげな独白が尻すぼみとなり、最後は喉の奥に消える。
父親が恋人のオメガを番にしていれば、息子が発情期 に巻き込まれることもなかった。
言えなかった台詞の先は、そんなところだろう。
最低最悪の父親だ。
でも、先ほど僕たちを見送っていた眼差しは、どこか寂しそうに見えて、僕を捕まえて「三人で」などと嘯いたのも、本心ではなかったように思える。
稲垣も、父親を憎みきることができないから、同じ役者の道に進んで、たまにああして金を渡しているのかもしれない。
苦々しい思いが胸の中を支配する。
自分の両親のことを思った。
僕が小学生のときに僕と母を捨てて出て行った父のことを、母は一度も悪く言ったことはなかった。
自分から話題に出すこともなかったけど。
僕がお父さんのことを訊くたびに、ただ悲しそうな顔をしていた。
あの頃は、母がどうしてそんな顔をするのかわからなかった。
怒って、憎んで、貶して。それで好きだったことを完全に忘れられたら、そのほうがきっと楽になれただろうに。母も、稲垣も。
『どうしてお父さんは、僕たちを置いて出て行ったの?』
小学生の僕の問いに、母は悲しそうな顔をするだけで、答えをくれたことはなかった。
でも、必ず最後にこう言っていた。
『お父さんはお母さんに、夏希という一番大事な宝物を残してくれたから。だから、お母さんはお父さんに、ありがとうという気持ちしかないの』
虚勢が半分。残りは僕への気遣いの言葉だと、大人になった今は思う。
実際、僕が勉強も運動もできない駄目な子供だから、お父さんは出て行ったんじゃないかと思っていた僕は、その言葉に救われた。
だから僕も彼に、上っ面な言葉だとわかっていても、ひとことだけ言いたかった。
冷えた空気を、すぅっと肺に細く取り込む。
なるべく重くならないように。でも、一語一句に気持ちだけは込める。
「でも……、ご両親が結婚したから諒真さんが生まれてきたわけですから……。二人とも、結婚したことは、後悔してないんじゃないですか? 『結婚すべきではなかった』なんてことは、絶対に思っていないと思います」
しばらくの静寂ののち、ふいに、左の肩に重みを感じた。やわらかな髪の毛が、頬を撫でる感触がする。
慣れない距離感に一瞬固まったけど。嫌ではなかった。
僕も、誰かに寄りかかりたくなったことが、何度もあるから。
肩を借りるよりも貸せるほうが嬉しいものだと、初めて知った。
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