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オメガならよかった(11)

 僕の拙い言葉と、真摯に向き合ってくれたからだろう。  随分と時間をかけて、「そうだな」と、嘆息混じりの声が返って来た。   「映像向きの演技を意識しすぎて、井上のことをおざなりにしていた気がする。それじゃあ本末転倒だよな」  稲垣が何かを吹っ切るように勢いよく立ち上がった。  回れ右して体ごとこちらを向いたが、薄闇に溶け込んでいて、表情はほとんど判別できない。 「夏希」  名前を呼ばれる。  そろそろ帰ろうか――。次に来る言葉を予測し、僕も腰を上げる。    けれど続く言葉はなく、稲垣の右腕が上がったと思ったら、それは僕の肩へと伸びて来て、体を引き寄せられた。  バランスを崩し一歩前に踏み出すと同時に、倒れ込むように稲垣に抱き留められる。コートのカシミヤらしい肌触りのいい生地が顔に触れ、オリエンタル系の香水の香りがふわりと鼻腔を甘くくすぐる。  あったかい……。と思ったときには、両腕に囲われていた。   「ちょっとだけ、こうしていてもいいか?」  肩口で声がする。  先ほど頭を預けられていたときと違って、あたたかな吐息が耳にかかり、頬が触れ合うほど近くに彼の体温を感じる。  何が「いいか?」なのかはわからない。何がどうしてこうなったのかもわからない。  ただ一つ理解できることは。自分が稲垣に抱きしめられているという事実だけだ。  人とのスキンシップに慣れないせいか、彼がアルファだからか。  『動揺』以上に心臓がドキドキと加速し、体が熱くなるのがわかる。  「いい」とも「駄目」とも返事をできずに固まっていると。 「ありがとう」  続けて鼓膜を熱くした言葉に、突然の抱擁の理由はそれかと腑に落ちた。普段よりも熱烈に、お礼を言いたかったのだろう。  理由がわかって混乱が落ち着いたが、それはそれで、居たたまれない気分になる。 「お礼を言われるようなことは、特に何もしていませんから」  昼間も、似たようなやりとりがあったことを思い出した。今日は稲垣に礼を言われる日らしい。  横髪を鼻先で掻き分けるように、肩口でもぞもぞと顔が動く。くすぐったくて声が洩れそうになるのを、必死に我慢した。 「やっぱり……。オメガの匂いはしねーな」  あたたかな空気が、一気に冷えたように感じる。  稲垣の父親に言われたとき以上に、心臓がドクンと大きく跳ねた。  発情期(ヒート)は一か月ほど先で、予定外の発情期(ヒート)も抑えられるように、低用量の抑制剤は既に飲み始めている。匂いについては一度目の人生以上に気にかけていて、少しでも不安なときはカモフラージュのための香水もつけるようにしていた。    大丈夫だ。と自分に言い聞かせる。  帰る直前にトイレで確認したときは、フェロモンの匂いは全くしなかった。 「べ、ベータなんですから……。当り前じゃないですか……」  さも当然のように言ったつもりだけど、声は少し上擦ってしまった。  稲垣が腕に力を込め、抱擁が更に強くなる。 「夏希が……、オメガならよかったのに…………」  心臓をキュッと掴まれるような、切なさを感じる声だった。  いったい、どういう意味だろう。  離婚したという彼の両親のことと、何か関係があるのだろうか。  答えに辿り着くより先に、抱擁が解かれる。  名残惜しそうにその手は僕の頭へとのぼって行き、くしゃりと髪を撫でる。 「ありがとう。元気出た」 「お礼を言われるようなことは、何もしてませんから」  今日三度目となるその台詞しか出てこない。  暗くて顔が見えないことが救いだった。どんな顔をしたらいいのか、わからなかったから。  稲垣が僕の手を引き、歩き出す。  その手は公園を出ると同時に、そっと解かれた。  諒真さんが元気になれたのなら、よかった。  鹿児島で一泊した日の翌朝、浜辺を歩いていたときの三間も、似たようなことを思っていたのかもしれない。僕の悩みが晴れたのなら、よかったと。  恋愛感情は微塵もなく。役者の先輩として、力になれてよかったと思っていたはずだ。  身を持ってそれを知ることができたのは、幸か、不幸か。  稲垣も少し気まずかったのか、駅までの道中、普段と違って会話はなかった。  満足感の奥に生じた痛みには気づかないふりをして。  僕も前方の駅の明かりへと視線を定めて、黙々と足を前へと進めた。

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