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オメガならよかった(12)
***
玄関の開く音がする。いつものように、うがい、手洗いの時間を置かず、今日はすぐに足音が近づいて来た。
リビングのドアが開くのを待ち、まな板から顔を上げる。
「お疲れ様です」
いつもならすぐに返される「お疲れ」という言葉が、すぐには返ってこない。
三間は後ろ手にリビングのドアを閉めたものの、ドアの前から動こうとしなかった。
元々、愛想のよい男ではないが、その表情はいつになく気難しく見える。バッグを手にコートを着たままの三間と、アイラウンド型のキッチン越しに見つめ合うこと数秒。
三間は荷物を床に置くと、コートも脱がずにこちらに近づいてきた。
僕は包丁と切りかけのトマトから手を離し、体の向きを変えて彼を迎える。
機嫌が悪いのは顔を見ればわかる。でも、機嫌を損ねるようなことをした覚えはない。
撮影で何かトラブルがあったのだろうか……。そんなことを考えていると。
「くせぇ」
眉間に深い皺を寄せ、開口一番に言われたのがそれだった。
育ちは良さそうなのに、プライベートの彼は普段から言葉遣いが上品とは言えない。でも、面と向かって貶されたのは、二度目の人生では初めてだ。
羞恥心で、カアッと顔に血がのぼる。
「す、すみません。今日はジムに行く時間がなくて、シャワーを浴びてなくて……。ちょっと制汗剤使ってきますね」
汗をかくようなことはしていないが、撮影所もこの部屋も暖房が効いているので、気づかないうちに汗をかいていたのだろう。体が暖まったせいで汗の匂いも含めて体臭が濃くなったのだと思った。
けれど、身を小さくして彼の横をすり抜けようとしたところを、三間が一歩横にずれて、行く手を塞がれる。
「そうじゃない。なぜ、お前から諒真の匂いがするんだ?」
へ…………?
と言ったつもりが、音にはならず、口を半開きにしただけの間抜けな顔になった。
「僕自身がくさいんじゃなくて、諒真さんの匂いがすることを、『くせぇ』と仰ったんですか?」
稲垣の匂いがするだけなら、『くせぇ』などと顔をしかめず、『諒真の匂いがする』と言えばいいのに、とちょっと腹立たしく思う。それに、単に匂いがするだけなら、『くせぇ』なんて表現は、稲垣に失礼だ。
けれど、三間の剣呑なオーラは続いていて、小言を言えそうな雰囲気ではない。
「あいつと……、何かあったのか?」
「帰りに公園で話をしたんです。諒真さん、今日、NG連発していたから……。話を聞くだけでも、気持ちが楽にならないかなと思って……」
父親のことは伏せて説明する。
「話をしただけで、なぜ匂いが移るんだ?」
確かに言われてみれば、自分から、稲垣がつけていたオリエンタル系の香水の匂いがしないでもない。自分でもわからないくらいだから、かなり三間は鼻がいいようだ。もしかしたら、香水だけでなく、アルファ同士にしかわからないような匂いも移っているのかもしれない。
不機嫌の理由はそれかと思った。彼女にマーキングするくらいだから、他のアルファの匂いを家の中に持ち込まれたことに、腹を立てているのだろう。
「別に何をしたわけでもないですけど……、諒真さん、少し気持ちを持ち直したみたいで、最後にありがとうと言ってハグをされたんです。そのときに匂いが移ったんだと思います。……あの……、気になるようなら、料理はもうできているので、今日は僕はもう帰ります」
髪に匂いがついているのなら、制汗剤ではどうにもならない。まさか三間の家でシャワーを借りるわけにもいかないし……。
眼光の鋭さは、わずかにやわらいだように思う。
それでも、まだ何か受け入れがたいことがあるようで、気難しい顔が、考え込むように瞳を揺らした。
「お前は、あいつのことが……」
三間が何かを言いかけたとき。携帯のバイブが振動する音がした。
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