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オメガならよかった(13)

 僕の携帯はキッチンの天板の隅に置いてある。振動音は三間の腰回りから聞こえていて、彼はパンツのポケットからそれを取り出すと、画面を確認し、その場を離れた。  リビングからベランダに出たところをみると、会話を聞かれたくない相手らしい。話している声は微かに聞こえて来るが、内容は全く聞き取れなかった。  リビングに戻って来た後も、しばらくの間、立ったままスマホを操作していた。  僕はというと、今日はもう帰るつもりで、急いで残りのトマトをスライスしていた。モッツァレラチーズと並べてバジルの葉を上に置き、オリーブオイルとブラックペッパーをかける。  料理をテーブルに運んでいるところに、スマホの操作を終えた三間が戻って来た。  その顔から先程までの剣呑さは消えていた。ただ、いつもの無愛想とも違う。  何かトラブルがあったのだろうと察せられるような、切迫感を感じる表情だった。 「悪いが急用が入った。俺は今から出かけるから、お前は飯を食ったあとはタクシーで帰ってくれ。30分後にタクシーを呼んでいる。俺の分の食事は冷蔵庫に入れておいてくれたらいい」 「だったら、僕も今から電車で帰りますよ。タクシーは断ってください」 「それは駄目だ」  口調が、急に険しくなる。 「タクシーの料金は俺に請求が来るようになっているから、金の心配はいらない。必ずタクシーを使ってくれ」  ――だから嫌なんじゃないか。  胸の内で愚痴を零す。急いでいるようなので、駄々をこねて話を長引かせるのは我慢した。  床に置きっぱなしだった鞄を手に、リビングを出ていく彼のあとを追う。 「なつ」  旅行以来、二人きりのときだけ使われる呼び方で名前を呼ばれる。  その声は、いつもと違って、どこか重々しい響きに感じられた。 「もし……、何か身の回りでおかしなことがあったら、すぐに白木さんに相談しろ。白木さんがいないところで誰かと食事するのも、やめておいたほうがいい」  背中を向けられているから表情はわからない。  身の回りでおかしなこと――と言われてすぐに思い出したのは、一度目の人生のことだ。三間と食事に行き、イレギュラーな発情期(ヒート)が来たことで、人生が一変した。  でも、三間がそのことを知っているはずがないし、今回は今のところ誰かの恨みを買った覚えもない。僕の身の回りで、いったいどんなおかしなことが起こると言うのか。 「それから……」  脱ぎっぱなしだった靴に足を通しながら、三間が話を続ける。 「夕食作りは、しばらく休みでいい」  色々と気がかりなことが他にもあったはずなのに。全部頭から吹っ飛んでしまった。  靴を履き終え、体ごと振り返った三間と向かい合う。三和土と廊下の段差のせいで、いつもと違って目線がほとんど同じ高さにあった。 「しばらくって……、いつまでですか?」 「今はまだわからない。面倒事が片付いたら、今後のことについては、一度ちゃんと話をしたい」  急に空気が張りつめたのは、アルファの威圧感だろうか。これ以上何も訊くな、と言外に言われているのがわかる。喉が委縮し、それ以上何も訊けなくなった。  三間の手が、僕のほうへと伸びてくる。頬に、そっと触れられる。  ほんの一瞬。存在を確かめるような、遠慮がちな触れ方だった。  もっと触ってほしい。  稲垣にされたみたいに、ぎゅっと抱きしめてほしい。  そんな思いが、顔に出てしまったからか。  物足りなさだけを残して、すぐにその手は離れていった。  その行動に、何か意味があったのかはわからない。 「行ってくる」  自分に、「行ってらっしゃい」と言う資格はない気がして。玄関を出て行く彼を無言で見送る。  きっとこの家でこうして彼を送り出すのは、これが最初で最後なのだろう。そんな予感が、いつまでも僕をその場から動けなくさせていた。  彼の行き先と、呼び出した人物を僕が知ったのは、翌日のことだ。  翌朝。撮影所に現れた三間は、前日と同じ服装で、佑美さんの、濃いオメガフェロモンの匂いを纏っていた。  佑美さんは予定より早く発情期(ヒート)が来て、その日の撮影は急遽休みを取ることになったとのことだった。

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