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海外ロケとスキャンダル(6)

 振り返ると、稲垣がこちらに向かって歩いてきていた。  僕たちと2メートルほどの距離を残し、足を止める。  対峙する二人のアルファの間にいつにない張りつめた空気を感じ、急に息苦しさを覚える。  稲垣が睨みつけるように三間に向けた眼差しを、僕へと移した。 「その匂い……、お前、オメガだろ? どうして、ベータのふりをしてるんだ? 晴さんは前からそのことを知っていたのか?」  ただでさえ回転の悪かった頭が、完全に思考が停止し真っ白になった。  日本語としては理解できるのに。さっきの助監督の話のように、言葉が右の耳から左の耳にすり抜けていく感じで、意味が頭の中に残ってくれない。  三間が僕を背後に隠すように、稲垣との間に割って入る。 「今のこいつがまともに答えられる状況じゃないことはわかんだろ。後にしろ」  背後でエレベーターの到着を知らせる、チンという音が聞こえた。 「夏希」  三間の体の向こうから声がする。 「俺を頼れよ。お前が俺を選ぶなら、俺は絶対にお前を裏切らない」  どういう意味だろう。  思ったが、思考が麻痺したように、それ以上深く考えることはできなかった。  ただならぬ思いが込められていることは、真剣な声色から伝わってくる。  言われたことの意味をちゃんと考えて、答えなければいけないと思うのに。  思考が衝動に絡み取られていく。  今は一刻も早く部屋に帰りたい。  頭の中が、それだけになる。  体が火照り、下腹で血が騒ぐ。  後ろが疼き、じわりと濡れる感触がする。  部屋に戻って、早く触りたい。  触って、弄って、早く――……。  三間が一歩身を引き、隠れていた稲垣が視界に戻って来る。  声と同じように。その顔は、怖いくらい真剣な表情をしていた。   「一人で部屋に戻るのは危険すぎるから駄目だ。どっちを選ぶかは、お前の好きにしろ」  稲垣とは真逆で、三間のほうは突き放したような言い方だった。  ……それは……、諒真さんを選んでもいいということだろうか。  お陰で、手離しかけていた理性が少しだけ戻って来た。  ――いや、それがベストの選択だ。三間には佑美さんがいるのだから。  三間も、親切でここまで連れ出してくれたけど、本当は諒真さんが追いかけてきてくれて、助かったと思っているはず。  それか、部屋まで送って行くだけだから、誰でもいいと思っているのか?  でも、アルファが発情期(ヒート)中のオメガと一緒にいて、部屋に送るだけですむのか?  僕が諒真さんを選んで、もしかして二人で一夜を過ごすことになっても、三間はそれでいいのか?   ぐちゃぐちゃで考えがまとまらない。  抑制剤を飲んでいない、完全な発情期(ヒート)だったら、迷わず三間を選んだだろうけど。それは駄目だと思えるくらいには、理性が残っていた。 「選択肢なんて……、ない、ですよね…………」  恨み事を言わずにはいられなかったのは、僕に選ばせる男が憎らしかったからだ。  一度目の人生のときのように、否応なしに部屋まで連れて行ってくれたら、正しい選択を考えずにすんだ。  選ばれたら困るくせに。僕に決めさせるのはずるい。  完全に突き放してくれたら、何も言わずにそれに従ったのに。  正しい選択――稲垣のほうへと歩きかけて、足を止める。後ろから、シャツを引っ張られていた。  期待はなかった。  ただ、歩けないから、顔を振り向かせただけ。  でも、顔を振り向かせて、目が合った瞬間――……、自分の中からなけなしの理性が、すーっと消えていくのがわかった。  触ってほしい。  触りたい。  欲しい。   欲しい……。   一生に一度でいいから。  他には何もいらないから。  どうしても、貴方が…………。  くらりと、世界が揺れたように思う。  気づいたときには、三間と二人でエレベーターに乗っていた。  

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