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真相(15)
三間のマンションに到着し、連れ立ってエレベーターに乗り込む。
「大丈夫か? やっぱりどこか調子が悪いようなら、病院に連れて行くが……」
気づかわしげに声をかけられ、顔を上げた。
事件の真相を聞いた後から僕が口をきかなくなったので、気を使わせてしまったのかもしれない。
喋る気力が湧かなくなったのは、体力的にも精神的にも、どっと疲れが押し寄せてきた所為だった。正直、今はもう何も考えずに、夕食も食べずに朝まで眠っていたいけど。病院に行くほどの不調ではない。
「大丈夫です。それより、時間ギリギリなんですよね? ホテルまで送ってもらったほうが、よかったんじゃないですか?」
「今日は日曜だから今から車で行っても、間に合うだろう。一つ取りに戻りたいものがあってな」
取りに戻りたいものって、もしかして、婚約指輪とか……?
浮かんだ考えに、さほど胸は痛まなかった。
疲れているときって頭だけでなく心も鈍くなるんだな。と他人事のように思う。
よく考えたら、結婚発表の記者会見って、両方が芸能人だった場合、合同でされることが多かった気がする。
佑美さんが婚約指輪を嵌めて、その手をカメラに向けて、笑顔でポーズを取ったりするんだろうか……。
どうしよう。
目を逸らすのはあからさまな気がするし、かといってすぐには返す言葉が思いつかない。
「おめでとうございます」と、このタイミングで言った方がいいんだろうか……。まだ正式に発表もされていないのに?
考えを巡らせ、固まっていると。
チン、と電子音がエレベーターの到着を知らせ、ドアが開いた。
涙だけは、最後まで見せないようにしよう。
そう心に決め、先に降りた彼の背中を追う。
いつになく速足だから、やはり急いでいるようだ。
「忘れ物取りにきただけですよね? 僕、ここで待っていますよ」
玄関横の壁際に身を寄せ、鍵を開けている彼に伝える。
この部屋に最後に来た日のことを、随分と昔のことのように感じていた。
誰かに電話で呼び出されて、「行ってくる」と言って出て行った彼を玄関で見送るとき、「行ってらっしゃい」と言えなかった。そのことを思い出したら、鈍かったはずの心が少しだけ、ツキンと痛んだ。
あの日、三間を呼び出したのはおそらく佑美さんで、翌日、三間は彼女のフェロモンの匂いを纏って、撮影所に現れた。
「せめて三和土まで、入ってもらえるか?」
手を取られ、有無を言わさず引っ張り込まれる。
急いでいることと矛盾するその行動に、戸惑いを覚える。
あの週刊誌は明後日発売と言っていたから、差し止めは無理だろう。
僕がオメガだったことはすぐに世間の人達の知るところになるので、家の前に僕が立っているところを、同じフロアの住人に見られたくないのかもしれない。
そんなことを考えていたら、ドアが閉まると同時に抱きしめられた。
一瞬、息ができなくなるくらいの、強すぎる抱擁だった。
「みま……さん?」
困惑の声に返事はない。
「晴さん?」
今度はわずかに、身じろぐ気配がした。顔を肩にうずめられ、硬質な髪に、頬と耳を擽られる。
「時間、ないんですよね?」
抱擁の理由よりも、そちらのほうが気になった。
記者や佑美さんを待たせるわけにいかないだろうに。
「絶対に助けると決めていたんだが……」
耳元で呟かれたのは、質問の答えではなく。
その声のあまりの弱々しさに、それ以上、何も言えなくなった。
こんな頼りなげな彼は、演技でも見たことがない気がする。
おずおずと、僕も彼の背中に腕を回し、宥めるように、背中をぽんぽんと軽く叩く。
「あの男が、『動けば、喉を突きさす』と言っているのを聞いて……、俺が不用意に動けば、お前が刺されてしまうかもしれないと考えたら、怖くて体が動かなくなった」
先程の、屋外セットで男に襲われたときのことだ。
僕も、恐怖で体が硬直し、男が言うように先に意識を失くしたほうが楽に死ねるのではと思って、一瞬諦めかけた。
その瞬間を思い出せば、再び恐怖で身が竦むだろうと思っていたけど。不思議なほどに、今は怖くはなかった。縋りつくように僕を抱きしめ、声を震わせる人に、意識の全てを奪われている。
そう言えば、まだちゃんとお礼を言ってなかったことを思い出した。
「助けに来てくださって、ありがとうございました。晴さんが来てくれなかったら、僕は今頃、ここにいられませんでした」
肩にうずめられた頭が、子供がいやいやをするように微かに揺れた。
「礼を言うのはこっちだ。あのとき……、お前が『三間さん』と呼ぶ声を聞いて……、お前はまだ諦めていないと思ったら、咄嗟に体が動いていた……。ありがとう。お陰で、俺は二度も、俺の所為でお前を失わずにすんだ…………」
……二度って、どういうことだ?
その言葉に気を取られていると、ややあって抱擁は解かれた。
「ちょっと待ってて」
照明がセンサー式の三和土と違って、奥は手動になっている。スイッチを押して廊下の明かりをつけ、三間が家の奥へと消えていく。
戻って来た彼は、小箱と銀色の首輪のようなものを持っていた。小箱は救急箱で、首輪はサイズからしてオメガが使うチョーカーだろう。
「消毒と絆創膏くらいしかないけど」
僕の首の傷の処置をしてくれるようだ。
「帰ってから自分でやるからいいですよ」と言う隙を与えられず、小箱から取り出したガーゼに消毒液を垂らし始める。
首に優しくあてられ、消毒の痛みではなく冷たさに、ピクっと身じろぎした。
「悪い。しみたか?」
「あ、いえ。冷たかっただけです。時間がないのに、傷の処置までしてもらって、すみません」
消毒が乾くのを待ち、細長い傷パッドを貼られる。
「念のため用意していたチョーカーがあるんだが……、どうする? マフラーやスカーフもあるが、ホテルの中だし、スカーフもその格好だと合わないだろう?」
言われて、靴箱の扉についている鏡に目をやると、首に絆創膏と紫のうっ血痕をつけた自分自身を確認できた。チョーカーは、うっ血痕を隠すためのものだろう。
いざというときに走って逃げることも考えて選んだ、スウェットパンツにミリタリージャケット、薄手のセーターという組み合わせには、確かにスカーフは合わない。室内でマフラーを巻いたままもおかしい。
艶やかな光沢のある銀色のそれはチタンよりももっと高価な物――おそらくプラチナ製に見える。いったい何十万するんだろ。
気軽に借りられる代物ではない。
「別に僕が記者会見をするわけではないから、多少痕が見えていても大丈夫ですよ」
どうする? と訊いてきたくせに。断ると、三間は眉間に皺を寄せ気難しい顔になった。
どうやったら僕がそれをつけるか、考えていそうだ。時間がないというのに。
「すみません。やっぱりお借りしてもいいですか?」
普段は滅多に笑わない男が、あからさまに、ホッと表情を綻ばせる。自分でつけようとしたが、「後ろ向いて」と言われるがままに背を向け、彼につけてもらうことになった。
救急箱は玄関に置いたまま、僕たちは三間の部屋を出た。
来たときよりは落ち着いた足取りで、エレベーターホールに向かう。
かつてないほど軽い物だしサイズもちょうどいいのに、久々につけたチョーカーに妙に圧迫感を感じる。
佑美さんはプライベートではいつもチョーカーをつけているから、佑美さんのためのものではない。僕はここに通っていたとき、ベータのふりをしていたから、当然、僕のために用意されたものでもない。
佑美さん以外に、念のためのチョーカーを用意するような相手がいたということか……。いやでも、堂々とそれを僕に貸しているということは、きっともう終わった相手なのだろう。佑美さんと付き合う前の相手に違いない。
考えても仕方のないことをそれ以上考えるのはやめて、エレベーターに乗り込んだ。
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