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真相(20)
「なつ――!」
他に人のいないエレベーターホールに、声が響く。
怒声のようでもあり、必死に縋るような響きにも聞こえた。
ビクッと体が身震いし、足が止まる。
アルファの圧に囚われ、身動きが取れなくなった。
せめて、濡れた顔を拭わないと。そう思うのに、手を上げることすらできない。
駆けてきた足音は、背後で止まる。
怒っていることは、気配 から伝わってくる。
でも、怒っている理由には、理解が追い付かない。
3年と4カ月。
念のためのチョーカー。
戦友。
その人と一緒に幸せになりたいと、三間がずっと以前から思っていた人。
顔も知らない誰かの情報だけが、頭の中でぐるぐると回っている。
咄嗟に逃げてきた理由は、その人のことをこれ以上知りたくなかったからだと、他人事のように思った。
嫉妬も羨望も、辛いも悲しいもない。
一瞬でも期待を膨らませたことで、自分の中にあった願望の大きさを、思い知らされた。そのことが、今はただ、彼と顔を合わせられないくらい、恥ずかしかった。
ふぅ、と怒りの滲む嘆息が、背後から聞こえる。
「芸能界を離れて、どうするつもりだ? 一人で子供を育てるために、他で働くのか?」
――やはり。
三間は僕の妊娠のことを知っていたようだ。
お前には無理だろう、という馬鹿にした響きはない。
でも、責められていることは、伝わってくる。
堕ろしてほしいんだろうか。――いや。そりゃ、そうだよな。
いくら迷惑をかけないと言われても、いきなり十何年後とかに、「三間晴仁に隠し子発覚!?」とか、また週刊誌にネタにされかねない。
誰だって、禍根は残したくないに決まっている。
気持ちを伝えれば、わかってくれる人だと思う。
でも、「何で産みたいんだ?」と訊かれたら、どう答えたらいいんだろう。
そんなことを考え、返事をできないでいると。
「その子がいるから自分は一人じゃない。そう思って、今回も生きていくのか?」
苛立ちが剥がれた、痛切な声が聞こえてきた。
「そこに俺は、入れてくれないのか? 何故、人の気持ちも確認せずに、一人で勝手に決めてしまうんだ?」
込められているのは、憐みではない。
三間は僕を憐れんでいるのではなく。きっと本当は、怒りたいのでもなく。悲しんでいた。
……何を……言っているのだろう……。
アルファのオーラにあてられて、涙は完全に引っ込んでしまった。
近づいて来た足音が、回り込んで僕の前で止まる。咄嗟に、顔を俯かせた。
その瞬間、ふっ、とオーラがやわらいだ気がする。
「――駄目だ。こういうところだな。俺のこういうところが、相手を何も言えなくさせる。怒るより先に謝れと、社長にも言われたんだった」
ガシガシと頭を掻く音がする。
「すまない。あともう少しで念願が叶うと思ったら、つい浮かれてしまって、記者の質問に正直に答えていた。お前に説明する方が、先だったのにな」
念願? 三間でも浮かれることとかあるんだな。
意外に思っていると、俯かせた視線の先に、銀色の首輪 が差し出された。
「とりあえずこれは、返されても困る。お前に買ったやつだから」
――――え……?
思わず、バッと顔を上げた。
肩をすくめた三間が、困ったような呆れたような顔をする。
「自分では、結構匂わせてるつもりだったから、気づいてくれていると思ったんだがな」
僕からチョーカーの内側が見えるように、くるっと向きを変えて見せた。
そこには、何かアルファベットの文字が彫られている。
『H to N』と書かれていた。
「他の甘ったるい言葉は照れ臭かったから、それだけ掘ってもらったんだ。――もしかして、これの意味もわかんない?」
僕が何の反応も見せずに固まっていたからか。
そんな質問を投げて来る。
今の話の流れでこれを見せられたら、さすがの僕でもわかる。
『H』は晴仁の頭文字で『N』は夏希。『H to N』。晴仁から夏希へ、贈られたものだろう。
ただの、一晩の、ヒート事故の相手に渡すようなものではないことも、予想がつく。
でも、だとしたら――……。
「……三間さんには……、好きな人がいるんですよね? 3年以上前に出会った、戦友みたいな人で……。その人と一緒に幸せになりたいと、ずっと以前から思っていた人……。なのに、何故……、僕にこんなものをくれるんですか……?」
僕を覗き込んでいた切れ長の目は、一瞬だけ、僕を通して別の誰かを見ているような、優しくて遠い目をした。
すぐにまた、焦点が僕に定まり、懇願と祈りの混じる切実な眼差しに射抜かれる。
「俺は 、最初に出会ってからの年数を全部足したら、3年と4カ月なんだ。なつ――。今度こそ、お前と……、お前達と、幸せに生きていくために、俺はお前を追って、戻って来たんだ」
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