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真相(24)

 『希望(のぞみ)』は、生まれたときの体重は500gほどだった。  妊娠24週で生まれた子の平均よりも更に小さかったから、母体の栄養状態の悪さが影響していたのかもしれない。  生後3カ月までは呼吸器に繋がれていて、その後も、点滴やら栄養のチューブやら色んな管が繋がっていたので、生きているうちは抱っこすることもできなかったそうだ。 「……でも、最後のほうは、指を掌に持っていくと、ぎゅっと握ってくれていたんだ。俺の指を握り込めないくらい、小さな手だったけど……」  暗闇の中で、指を引いてくれた手を思い出した。  あの手も、指先をちょこんと包み込めるくらいの、随分小さな手だった。 「最後のほうってことは……」  視線を俯かせた三間が、繋いだ手にもう片方の手を重ね、ぽんぽんと触れる。 「希望(のぞみ)が生後半年の頃にな。腸の調子が悪くなって、管で入れていた栄養を一旦ストップするって言われたんだ。医者から、もしかしたら、急に状態が悪化する可能性もあるって話を聞いて帰った日、夢の中にあいつが出てきて……。真っ暗闇で何も見えないから、出てきたって言い方もおかしいけど……。寝ていたと思ったら、急に子供の声が聞こえてきたんだ……」  僕はそっと、彼を盗み見る。  頬に涙の痕を残した横顔は、苦しいことも悲しいことも、全てを慈しむような、達観した微笑みを浮かべていた。 「希望(のぞみ)が言うには、お前の魂が、死んだ後も希望(のぞみ)のことを心配して、傍を離れようとしないらしい。このままでは、お前は生まれ変わることもできなくなってしまう。だから……」 『――だから、かみさまにおねがいしたんだ。ぼくののこりのじかんを、ママにあげてくださいって。ママが、やりなおしできるように』  鼓膜から脳に伝わるまでに、三間の声が、暗闇で聞いた、舌ったらずな子供の声に変換される。    僕は大きく目を見開き、息を呑んだ。 「パパはどうする? って訊かれた。『ママだけだとしんぱいだなぁ』とか言って、一丁前に丸め込もうとしていて、今思い出すと、ちょっと笑ってしまうな」 「いや…………、でも、それって…………」    心臓が不穏に波打つ。  「追って戻って来た」という言葉の意味に思考が行き着き、声がかすれた。 「半年先くらいまでは仕事が決まっていて、仕事を放り投げてきたんじゃ、お前に叱られそうだったからな。残っている仕事を全部終わらせてから、その後に…………」  驚きと怒りが、濁流のように押し寄せて来る。 「お前達の墓の前で、真冬に睡眠薬を飲んで……。だから、眠くて寒かっただけで、他は全く覚えてないんだ。社長に遺書を郵送で送っておいたから、後のことは社長が処理してくれたと思う。お前と俺とで微妙に時間のずれがあるのは、一度目の人生で生きた時間と、遡った時間が違うからだろう」  こちらを向いた三間の顔が、ぶわりと歪んだ。  次々に瞼に涙が込み上げてきては、視界を潤ませ、頬へと零れ落ちる。呼吸もままならないほどに膨れ上がった激情が、胸や喉につかえて苦しかった。  何で?  どうして?  それしか考えられなくなる。   「お前と俺が巻き戻った時間は……、きっと、あの子に……、希望(のぞみ)に、残されていた時間なんだよ」    例え短い人生でも、何か一つでも、あの子の望みが叶えばいいと願った。その唯一の望みがそれだったなんて…………。そんなの。そんなの…………。 「……んで…………なん、で…………」  ようやく絞り出せた声は、同じ単語を繰り返すのが、やっとだった。  死んだからって、人生をやり直せる保証はないのに。  一度目の人生で、僕たちは恋人同士だったわけでもないのに。  三間は、誰かを好きになって、その人と幸せになる未来もあったのに。  何で?   どうして――。  嗚咽が喉に絡んで言葉にならない。 「……んでっ…………そん、な…………ば、かなこっ…………」  僕は子供みたいに泣きじゃくりながら、言葉にならない文句をぶつけ、彼の胸を叩き続けた。  嗚咽で咳き込んだところで、胸に押し付けた腕ごと、抱き寄せられた。  宥めるように、頭や背中を撫でられる。 「戻ってきたのは、柿谷夏希という人間のことをちゃんと知った上で、お前と一からやり直したいと思ったからだ。でも……、お前はベータってことになっていたから、今度は俺と関わらずに生きていくつもりなんだろうと思っていた。俺もそのほうがいいと思った……。でも、どうしても、今度こそお前たちと一緒に幸せになりたいと願ったあの思いを手離せなくてな……。白木さんから、お前が今回の映画のオーディションを受けると聞いて、俺も中尉の役を引き受けることにしたんだ。再会して、本当の柿谷夏希が、あの役作りのノートから想像したまんまの、努力家で、一途な人間だと知って、俺は…………」  嗚咽がおさまってきたところで胸から引き剥がされた。  少し不安げな表情で、顔を覗き込まれる。 「なつ――。俺は、責任感からでも、罪悪感からでもなく、お前のことが好きで、幸せになるのはお前と一緒がいいと思っているんだ。時間がかかってもいいから、逃げずに、俺との未来を真剣に考えてくれないか?」  もう、迷いはなかった。  僕で本当にいいのかな、という気後れはあるけれども。  それよりも、もっと強い思いが、自分の中にある。  共に、生きていきたい。  生きられなかった未来を。今度こそ、三人で。 「……好き、です…………」  その気持ちだけは、この先、どれほど辛く苦しいことがあっても、揺るがない自信があった。  たとえば、彼に運命の(つがい)が現れたとしても。ふたたび、死が二人を分かつことがあったとしても。 「……たぶん一度目の人生のときから……、晴さんのことが……、好きでした…………」  実際に口に出したら、溢れてくる思いの強さに胸がいっぱいになって、また、瞼がじんと熱くなった。 「たぶん、は余計だろ」  少しだけ不本意そうな顔をし、三間がふたたび僕を胸にかき抱く。  感触を確かめるように、鼻先を髪にうずめられ、背中を撫でられた。  僕も彼の背中に腕を回し、胸に顔を押し付け、大好きな匂いを胸いっぱいに吸い込む。  ぎゅっと目を瞑ると、暗闇の中に、小さな光が見えた。 『らいじょーぶ。ママがママらしく生きていたら、きっと、また会える』  舌ったらずな声が、聞こえた気がした。

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