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第30話『解放《真白 side》』
「……バイバイ、お母さん」
スッと無表情になって前を見据え、僕はゆっくりと立ち上がる。
不思議と以前のような怠さはなく、とても体が軽かった。
もう痛みや苦しみだって感じず、スタスタと玄関へ向かう。
そこで靴を履き直すと、僕はさっさと家を出た。
特にこれと言って目的もなく昼下がりの住宅街を歩き回り、ふと顔を上げる。
あっ、そうだ、お風呂。
近くの家から昇る湯気を見て、僕は帰宅した理由を思い出した。
が、また家に帰るのは面倒で少し悩む。
「────まあ、他所の家から借りればいいか」
すぐ横に建つ一軒家を見上げ、僕はポケットに手を突っ込む。
と同時に、インターネットを鳴らした。
すると、玄関から若い女が姿を現す。
「えっと、何の御用で……ひっ」
僕の薄汚れた姿に驚いたのか、はたまたカッターに怯んだのか……彼女は腰を抜かした。
カタカタと小刻みに震える女を前に、僕はヘラリと笑う。
「お風呂、借りるね〜」
そう言うが早いか、僕は玄関へ近づき────女の腹を刺した。
『かはっ……!』と血を吐き出す彼女の前で、僕は
「お邪魔しま〜す」
家の中へ足を踏み入れる。
そして、お風呂場へ直行すると、勝手にシャワーを借りた。
ついでに洗濯機も。
「う〜ん……やっぱり、汚れ落ちないか〜」
まだうっすら血痕が残っているパーカーを前に、僕は小さく肩を竦める。
「どうせ|また《・・》汚れるし、別にいいか」
────と、割り切った数ヶ月後。
僕は連続殺人事件の犯人として指名手配され、追われる身になった。
というのも、昼夜問わず場所選ばず人を殺すようになったから。
今の僕には、もう殺人衝動しか残っていない……空っぽの人間なんだ。
理性と感情が抜け落ちた状態の僕は、今日もまた他人に刃を向ける。
少しばかり表情を強ばらせる相手の前で、僕は迷わずカッターを振り下ろした。
と同時に、返り血を浴びる。
『とりあえず、一人目』と数えながらカッターを持ち直し、後ろを振り返った。
その瞬間、夜を詰め込んだような黒い瞳と視線が交わる。
「────おい」
黒い瞳の持ち主は怖気付く様子もなく、声を掛けてきた。
『極道だから、こういう荒事慣れているのかな』と思案する僕を前に、彼はこちらへ向かってくる。
なのでいつでも動けるよう身構える中、黒い瞳の持ち主は
「俺のところへ来い」
と、宣った。
あまりにも唐突な申し出に、僕はもちろん仲間の男達まで『えっ?』と声を上げる。
「僕、君の部下?同期?殺したんだけど……?」
「それがどうした」
怪訝そうな表情を浮かべ、黒い瞳の持ち主は腕を組んだ。
「俺にとって、そいつはそこまで重要な存在じゃない。あくまで、替えの効く駒。いや、消耗品。だから、どうなろうが構わない」
『また新しいやつを補充するだけだ』と告げ、黒い瞳の持ち主は顎に手を当てる。
「それより、お前の話だ」
本当にお仲間の死には興味ないようで、彼は本題へ戻った。
かと思えば、こう言葉を続ける。
「もし、俺のところへ来るなら衣食住は保証する。他にも必要なものがあるなら、言え。全て用意する」
真剣な面持ちでこちらを見据え、黒い瞳の持ち主はスッと目を細めた。
と同時に、僕は一つ息を吐く。
『全て用意する、ね……』と心の中で反芻しながら。
「じゃあ────僕が毎日たくさん人を殺したいって言ったら、その通りにしてくれるの?」
彼の首筋へカッターを宛てがいつつ、僕は半笑いで尋ねた。
そんなのいくら極道でも無理だ、と分かった上で。
『僕の|性《さが》を認めてくれる人なんて、居ないんだ』と決めつける中、黒い瞳の持ち主は
「ああ」
と、首を縦に振った。一瞬の躊躇いもなく。
ハッと息を呑んで固まる僕を前に、彼は自身の顎を撫でる。
「ただ、ターゲットは限定されるかもしれない。出来るだけ、お前の好きなようにさせたいが……今の俺の立場では、少々難しいな」
そっと目を伏せて悩むと、彼はおもむろに天井を見上げた。
「……上を目指すか」
半ば独り言のようにボソリと呟き、黒い瞳の持ち主は覚悟を決める。
と同時に、こちらへ目を向けた。
「お前の願いを完全に叶えるのは現状不可能だが、近いうち必ず環境を……遊び場を整える。だから────俺のところへ来てくれ」
再度そう呼び掛け、黒い瞳の持ち主はこちらへ手を差し出した。
切りつけられる不安など、諸共せず。
こっちの手には、刃を出したカッターがあるというのに。
「……目的は?見返りに何をさせるつもりなの?」
裏があるとしか思えない話に、僕は不信感を抱いた。
『きっと、とんでもない要求をされるんだろう』と予想する僕の前で、黒い瞳の持ち主は口を開く。
「────特にない」
「はっ?」
「ただ、お前が欲しいだけだ」
恥ずかしげもなくそう言ってのけ、黒い瞳の持ち主は小さく肩を竦めた。
が、納得していない様子の僕に気づくと、こんな言葉を投げ掛ける。
「まあ、強いて言うなら……“俺の傍に居て欲しい”。それが目的であり、こちらの求める見返りだ」
「……ますます意味が分からないね」
やれやれと|頭《かぶり》を振り、僕は額に手を当てた。
と同時に、黒い瞳を見つめ返す。
「どうして、そこまで僕に固執するの?」
『単なる人殺しだよ?』と言い、僕は怪訝な表情を浮かべた。
すると、黒い瞳の持ち主は迷わず
「お前のことが────好きだからだ」
と、答える。
その瞬間、僕の心が息を吹き返したような気がした。
────かと思えば、現実へ意識を引き戻される。
真っ先に血に濡れた日本刀と白いスーツを目にする僕は、『あれ?なにこれ……』と戸惑った。
が、青髪の男の死体を見るなり全て思い出す。
そうだ、外部勢力の主犯格を捕らえるためにここへ来て……それで……それで……。
主犯格の放ったセリフが脳裏に甦り、僕は身を竦めた。
『母』という存在を頭に思い浮かべるだけで、動悸が激しくなってしまって。
『嗚呼……痛い、苦しい』と嘆く中、不意に腕を引かれる。
「こっちを見ろ、真白」
そう言って、僕の頬に手を添えるのは他の誰でもない若くんだった。
ピクッと僅かに反応を示す僕を前に、彼は
「母親と何があったかは知らないが、今は俺がお前の保護者で恋人で家族だ」
と、告げる。
お前は一人じゃない、と示すように。
「俺一人では、不服か?」
『もっと味方を作りたいのか』と問う若くんに、僕は考えるよりも先にこう答える。
「ううん、若くんだけでいい。他は何も|要らない《・・・・》」
これこそが、僕の本音であり本心だった。
だって、もう母に愛してほしいなんて思わないから。
多分ずっと気づかなかっただけで、とっくに母の呪縛から解き放たれていたんだと思う。
若くんが僕のことを好きだと言ってくれた、あの日から。
あのときは『何を言っているの?この人』としか思わなかったけど……要求を受け入れて、|桐生組《ここ》へ来て良かった。
若くんと出会えて、良かった。
黒い瞳を真っ直ぐ見つめ返し、僕は感情の赴くまま彼に抱きつく。
「大好きだよ、若くん。ずっと、僕の|手綱《リード》を握っていてね。絶対に離さないで」
懇願するような……でも、どこか命令するような口調でそう言うと、若くんは少しばかり目を剥いた。
僕は普段こんなこと言わないので、驚いているのだろう。
だが、直ぐに平静を取り戻し、コツンッと額同士を合わせた。
「言われなくても、そのつもりだ。お前こそ、勝手に居なくなるなよ。まあ、逃げても直ぐに捕まえるが」
『お前はもう俺のものなんだから』と言い切り、若くんは唇を重ねる。
まるで、自分という存在を刻み込むかのように。
執拗に僕の舌を絡め取って、口内を蹂躙した。
「んっ……はぁ……続きは家に帰ってからだ」
『覚悟しておけ』と述べる若くんは、自身の唇を舐める。
と同時に、僕は
「は〜い♡」
と、返事した。
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