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第24話 慈雨
天木あんこさんの「俺と別れて、後悔しないって言える?」という書き出しをお借りして書きました。
*
「俺と別れて、後悔しないって言える?」
「はい」
震えを押し殺した問いに、俺の婚約者だった彼は大きく頷いた。
濡れた瞳には、強い意志が宿っている。
彼の決意は固い。
絡まった絹の糸を一本一本丁寧に解くように。
あるいは、無慈悲に糸を断つ研がれた鋏のように。
説得したとしても、その意思は揺らがないだろう。
それに、後悔しないかを彼に問うたとて、その心配はそもそもしていなかった。
(あの方なら、彼を幸せにできる)
彼が心を寄せたあの方は、深い海の底より暗い悪意を退け、雲の上まで聳え立つ障害も軽々と乗り越えていくだろう。
あの方なら、春の温かな日差しの中、地平線まで続く広い世界を彼に見せてあげられる。
陰謀渦巻く王宮にいる俺には出来ないことだ。
息苦しい鳥籠に捕らわれるより、よっぽどいいだろう。
「なら、俺が言うことは何もない。今までありがとう。君とあの方に、幸多からんことを」
最敬礼を取り、あの方が待つ馬車へと急ぐ彼を見送る。
静まり返ったサロンに残された俺は、手触りのいいソファに体を沈めた。
彼との思い出が詰まったこの場所は、今の俺にとっては猛毒だ。
それでも、虚脱感が抜けず動けないでいる。
大事にしていたつもりだった。
彼と語らい、彼の好きなものを贈り、愛を言葉にして伝え続けた。
でも、それだけじゃ足りなかった。
俺の最大の失態は、彼を襲う悪意に気付けなかったことだ。
気付いたときには、彼の負った傷はあの方に癒されていた。
(俺に、彼を幸せにする資格はない)
覚悟していた痛みは、想像以上だ。
もう、立ち上がれない。
コンコンコンッと、軽快なノックが聞こえる。
重くなった思考を浮上させる音に意識を向けたが、今は誰にも会いたくなかった。
返事さえしなければ、誰もここには入ってこないと、たかを括っていた。
「失礼するよ、殿下」
「出て行け馬鹿者。返事はしていない」
艶のある声に背を向け、礼儀知らずな不届者を追い返す。
早く出て行け。
でないと、情けない顔を晒してしまうだろうが。
「おかしいな? 聞こえたはずだけど?」
声の主は、どっかりと俺の背後――つまり隣だ――に腰掛けた。
ああ、もう……。
本当にこいつは俺の言うことを全く聞かないな。
「何しに来た。彼の国の酒はもうないぞ」
「人を酒狂いみたいに言わないでよ。たまには用がなくても来ていいでしょ」
悪びれもなく宣うこいつは、当代随一の魔術師だ。
彼の手にかかれば、難解な古代魔術も呆気なく解析され、指一本で新たな魔術が生まれる。
美酒を異様に好み暴走するという欠点はあるものの、それ以外は地位も性格も問題ない。
第四王子である俺が、遠い異国の地の酒を手に入れた。
そんな噂話を聞いて押しかけて来た変人だが、その話は興味深く、言葉巧みに魔術の世界を魅せてくれる。
今では気の置けない友人だ。
それでも、俺にだってプライドがある。
失恋したばかりの姿を見られるのは本意ではない。
権力を振り翳して追い出してやろうか。
そう考えたときだ。
「ッわ、え、なに、雨⁉︎」
全身に降り注ぐ水。
冷たすぎることもないそれは、俺を優しく包み込む。
こんなことするのは魔術師しかいない。
振り返ると、俺と魔術師にだけ降っていることがわかった。
体を預けたソファは水を弾き、弾かれた雫は煌めきとともに消えていく。
「ふふ、びしょ濡れだね」
今日、初めて見たエメラルドの輝き。
柔らかな眼差しに気付いて、胸がキュッと音を立てる。
魔術師はなんでもお見通しのようだ。
俺が泣けるようにと施された魔術は、どこまでも優しかった。
「もっと降らせろ」
「御意」
それでも、肌を撫でる雨粒は柔らかい。
喉奥から熱いものがせり上がってきて、唇が震える。
ポーカーフェイスを保っていられない。
俺は、魔術師の肩に顔を埋めた。
この行為が無意味なのはわかっている。
それでも、ぐちゃぐちゃになった顔は恥ずかしくて見せられなかった。
不意に、魔術師から抱き締められた。
同時に感じたのは、首筋に当たった柔らかな熱。
一瞬の口付けは、冷えた心に再び火を灯した。
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