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第3話 大嫌い、じゃ――②
『最近いい事でもあったのかい?』
そんな日々が続いていたある日のこと。
朝の挨拶の時に、父からそう声をかけられ、リンネは驚いて背筋を伸ばした。
「ど、どうしてですか?」
肯定より否定より先に困惑の言葉が出た。洞窟に吹く風のような笑い声が神殿に響く。威厳に満ち溢れた声に、リンネは心の中を見透かされた気分になって、居住まいを正した。
『なんだかこのところ、表情が柔らかくなったような気がしてね』
「そうですか? もしかしたら前に仕込んだ葡萄酒がうまくできたからかもしれません。明日持ってきますね」
流れるように言ってから、胸がきゅうと苦しくなった。
別に嘘はついていない。昨日味見をしたところ、本で読んだのを真似した割によくできていた。
そして、一緒に味見したグランも、破顔して褒めてくれたのだった。これまでに飲んだどんな酒よりも美味しいという言葉は、一人でいたら、けして得られなかったものだ。
そして、彼に褒められた時、リンネは確かに得意な思いがしたのだ。
その記憶を、意図して隠している。父に隠し事をするというのはリンネには初めてのことだった。これまではずっと一人と一柱だったから、全てのことを開示するのが当然だったし、それを嫌だと思ったこともなかった。
別に、悪いことをしているわけじゃない。言う必要がないから言ってないだけだ。わざわざ人間一人のこと、お父様の耳に入れるまでもない。
自分にそう言い聞かせるのは、後ろめたさがあるからだ。自覚するたび、却って息苦しくなる。
リンネの様子がおかしいことに気付いたのか、『どうかしたかい?』と尋ねられて、リンネは慌てて首を振った。
「いえ、僕のことを気にかけてくださってありがとうございます」
『当然だろう? リンネは私のたった一人だからね』
「はい、リンネもそう思っています。僕にとっての家族はお父様だけです」
『だから、リンネが悪い人間に騙されているんじゃないかと、不安になるんだよ』
鋭い言葉はリンネをドキリとさせた。
勢いよく顔を上げる。空間の奥を見透かすことはできない。どこまでも無限に続く闇に不安を覚えたのは初めてだった。
「……知っていたのですか」
『私の領域に異分子が入っていたことはね。リンネ、まさかお前が招いているわけじゃないだろう』
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
思わず、大きな声でリンネは反論していた。焦っているのが自分でもよく分かった。
「あの男はこの山に勝手に来ているだけです、それで、僕も困っていて……」
『大丈夫、わかっているよ』
すると、さっきまでと裏腹に優しい声が囁く。するりと闇が伸びてきてリンネの頭を撫でた。慈しみをにじませた柔らかい手つきなのに、なぜかずしりと重く、のしかかるように感じられた。
『人間は愚かで醜い、リンネを捨てたことを忘れてはいけないよ』
「……はい、もちろんです。僕は人間なんて大嫌いですから」
リンネは宣誓する。
その瞬間に、明確に自覚する。
――僕は、あいつのことが大嫌い。
――じゃない。
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