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第5話 痛みと想い①

 次の日から、グランが姿を現すことはなかった。もしかしたら、姿を現すことができなかったのかもしれない。  あの日を境に、山にあふれる瘴気は一段と強くなった。父曰く、この瘴気はリンネの呪いの力によるものらしい。 『呪力というのは、人間の負の感情が源となっているんだ』  父は、リンネを慰めるように言った。 『リンネの恨みや悲しみが、お前を守る力になっているんだよ』  だとするならば、グランにも――いや、グランにこそ呪いの影響があるはずだ。リンネをここまで傷つけたのは、グランなのだから。  リンネにとってはなんでもよかった。あの男が今更自分の前に姿を現したからといってなんだろうか。むしろ現れない方がいい。きっと彼の顔を見たら、自分は罵詈雑言をぶつけることだろう。  別に、何が変わったわけでもない。元々の生活に戻っただけだ。自分には優しいお父様がいる。リンネを守ってくれる、リンネを裏切らない、大いなる存在が。  自分の生活には初めから人間なんて入り込む余地はなかった。その事実に気が付けて良かったじゃないか。 「――はあ」  そう思っているはずなのに、口から漏れ出るため息を抑えることができない。  気を紛らわすために掃除でもしようとしても集中ができずに、箒の先でただ地面をなぞってしまうばかりだ。冷たく吹く風がリンネの髪を揺らして、リンネは思わず身を震わせる。  身が入らないのは掃除だけじゃない。釣りをすれば竿を落とすし、狩りをすれば全ての矢を外す。火を焚いていて、うっかりと周囲を燃やしそうになったこともあった。何をしていても、集中ができない。ぼーっとするだけの日々がもう何日も続いてしまっている。  グランがいたら、こんな時どんな事をしてくれただろう。  詮無い妄想が泡のように浮かんでは消える。  その事が恨めしい。最初から悪い人間でいてくれたらよかった。初めて会ったあの時に、腕をつかんで無理やりにでも連れて行こうとしてくれたらよかった。  そうしたら、物語はそこで打ち切られて、バッドエンドもなかったのに。  心の真ん中に、ぽっかりと穴が開いている。重ねた日々が蝕み、削り取った穴だ。  早く忘れよう。全部なかったことにしよう。そう思うほどにその穴の淵に沿って心は歪み、乾いた大地のように亀裂が走ってずきずきと痛む。  はあ、とこぼれた吐息は、ため息というよりも苦悶の息に近かった。胸元を押さえてリンネは俯く。  ふと、晒された首筋に冷たさが触れた。空を見上げると、パラパラと雨粒が降ってくる。数秒のうちに勢いが強まり、リンネは慌てて小屋の中へと避難した。 「サイアクの気分だ……」  泣きっ面に蜂とはこのことだろう。  全身が濡れて気持ち悪い。着ていた服を脱ぎ捨てて、適当なものを身にまとう。  強い雨が屋根を叩く。急に外も暗くなってしまい、リンネはランタンに火を灯す気も起らず、ベッドに寝転んだ。  周囲が闇に包まれて、世界から自分が隔離された感覚。  こんな退屈な時間を、自分はどうしていたんだっけ。ベッドの上で目を閉じると、雑念ばかりが浮かんでしまう。  孤独が気にならなかったのは、この世界の外にも誰かがいて、生活しているのだという事を知らなかったから。  でも、今はもう……。  ぽつぽつ、と瞼の裏に光が浮かぶ。だが具体的な像を結ぶことはない。

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