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第1話 運命の出会い

 羽田空港を行き交う人の喧騒ーーそれは丹治苑人(たんじ えんと)を孤独の中へ押し込めるてしまうには充分過ぎる衝撃だったに違いない。  苑人は初めて「都会」というバケモノに遭遇したようなものなのだから。 (トイレはどこだろう?)  キョロキョロと辺りを見渡しても苑人には無表情で通り過ぎる人の顔ばかりが気になってしまって、トイレの場所を誰かを呼び止めて聞くなどということはとうてい出来そうもなかった。 (あ、あれはトイレのマークだ。良かった、あのマークは一緒なんだ!)  苑人は赤と青のマークの書かれた場所へと駆け出した。那覇にも出たことがない、南の島からやってきた田舎者の苑人にとって、東京という場所はあまりにも巨大な迷路そのものだった。 「ふーっ、危なかった」  思わず正直な気持ちを口にした苑人はハッとして顔を赤らめた。だがそんな苑人のことを気にかける人などどこにもいなかった。 (すごいな、人だらけだ。東京に住んでいる人全員が出掛けているんだろうな、きっと)  おそらく苑人には、空港にいる人が東京の人口の全てだと思えるくらいの驚きだったのだろう。  荷物を置いてあった場所に戻って、苑人は愕然とした。バッグごとないではないか。影も形もないのだ。 (確かにここに置いておいたはずなんだけど……?)  床に視線を落としたまま歩いていた苑人は、通りがかった人と肩がぶつかってしまい、その勢いてその場に転んでしまった。 「おい君、大丈夫か?」  ギュッと目を閉じていた苑人は恐る恐る目を開けた。それは夢で、自分は死んでしまったのではないかと疑ってしまった。  肩までかかる金色の髪、黒のサングラスを引っ掛けた鼻はすらりと高く、ポカンと開いた口さえも綺麗だった。 「君、聞こえる? Can I help you?」  苑人は外人を見るのは初めてではなかった。島に時折訪れるアメリカ兵は何度も見たことがある。だがその外人は今まで苑人が見た事がないくらい綺麗だった。 「え、えー、アイム オーケー!」 「大丈夫じゃないだろ、どう見ても」  苑人は思わず叫び出しそうになった。外人だと思った人から流暢な日本語が出てくれば、大概の人の反応は苑人と同じだったかも知れない。 「ほら、いつまでも床に尻餅をついてないで。手を貸してやるから立ち上がれよ」  すっと差し出された手は指が長く綺麗で、まるでお姫様のような手だ、と苑人は思った。  でも違う。  お姫様なんかじゃない。真っ白なパンツスタイルの中心にははっきりと膨らみがあった。それもつい照れてしまいそうになるほど大きく、くっきりとした膨らみが。 (男だ!)  苑人は目を白黒させた。 「おいおい、今度は一体どうしたと言うんだ?」 「いや、すみません。てっきり女の人だと思って……」  するとそのみやびな手はがっしりと苑人の左手を掴み、一気に引き寄せた。 思いのほか強い力に、苑人は彼の胸元に顔をぶつけてしまった。 「なんだ、今度は甘えたいのか? 困った坊やだ。でもカワイイな、君」  ばっと身体を離し、苑人は頭を下げた。 「あの、すみません! 失礼しました!」  大きな声、礼儀正しいお辞儀。髪の長い青年は思わず吹き出した。 「俺はシン・シータ。シンでいいよ。君の名前は?」  苑人は驚いて顔を上げた。 「あ、僕は丹治苑人です!」 「タンジェント? こりゃいいや」  シンは後ろを振り返り、指笛を鳴らした。その音はどこにいても聞こえそうなほど澄んでいて、綺麗な高音だった。 「何だよシン、こんなところで指笛はないだろ?」  もう一人いた。苑人は凍りついたようにその場に固まってしまった。目の前にいるシンと瓜二つの人間がゆっくりと近づいてくるではないか。 「コス、来てみろよ。おもしろい子がいるぜ」 「おもしろい子だって? この子かい? 俺はコス・シータ。コスって呼んでくれ」  シンとコス。彼らは双子の兄弟なのだ。 「何だ、双子が珍しいか?」 「あ、いえその、あ、綺麗だなって……」  苑人は顔を真っ赤にしていた。 「な、おもしろいだろコス?」 「ああ、確かにな。で、名前は?」 「それがさ、タンジェントだって」 「何だって? マジかよ?」  苑人はようやく落ち着きを取り戻した。 「いいえ、たんじ えんと、です」  その時、エメラルドグリーンのスーツに身を包んだ女性が現れた。髪は黒くセミロングで纏めた姿はまさにキャリアウーマンといった印象だった。 「シン、コス、何をしているの? 早くして頂戴。時間に遅れるわよ?」 「待ってよえりこ。この子、どう思う? カワイイでしょう?」  えりこと呼ばれた女性は苑人を上から下まで細かく吟味するように眺めた。 「ええ、確かに可愛いいわ。君、名前は?」  シンとコスがゲラゲラと笑い出した。 「何を笑っているの、二人とも?」 「だって名前を聞かれるの、三回目だもんな、エント?」 「エント?」 「いや正しくはタンジェントだよ、えりこ」 「タンジェントですって?」  苑人はすっかり憔悴していた。自分の名前が変わってることに自覚はあった。でも初めて会った人たちにここまで驚かれるとは思っても見なかった。 「あら、ごめんなさいエント。ここにいる二人はシン、つまりサイン。コスはコサインという意味なの。それであなたがタンジェント。まるで三角関数みたいだったから、つい笑っただけなの。あなたを笑ったんじゃないのよ。ごめんなさい」  苑人はキョトンとしていた。確かに数学で習ったことがある。サイン、コサイン、タンジェント。それが揃ったのだ。彼らにしてみれば不思議な気分だったことだろうと納得がいった。 「ねえ、えりこ。この子を連れていっちゃだめかな?」 「ちょ、ちょっと待って。連れて行くって?」 「この子ならピッタリじゃない、今度の秋のフォーマル発表会のモデルに」  えりこはまじまじと苑人を見つめて言った。 「そうね、確かに。目鼻立ちはくっきりとしているし、浅黒い肌も素敵ね」  いきなりえりこは苑人の胸を掴んだ。 「うわっ、何をするんですか!」  苑人は思わず叫んだ。 「大胸筋もそこそこあるし、腕もしっかり筋肉がついているわ。悪くないわね」 「でしょう? 俺の見立て通りだ」 「コス、俺が先に見つけたんだぞ!」  苑人にはまだどっちがシンでどっちがコスか判断がつかなかった。ただ苑人はこの二人との出会いが偶然だとは思えなかった。  苑人は小さな頃からその名前のせいでいじめられることが少なくなかった。 特に三角関数を習ってからはずっと、彼はフルネームで「タンジェント」と呼ばれるようになっていた。だがこの二人と一緒ならぜんぜんおかしくなんかない。むしろ自然に聞こえるくらいなのだから。  苑人ははっと思い出したように辺りをキョロキョロと見回した。顔には不安の色が隠せない様子だった。 「エント、どうしたの?」 「ここに荷物をおいていたんだけど、無くなっているんです」 「はあ? 置きっ放しにしたのか?」  苑人は所在無げに肩を落とした。 「とにかくクレジットカード止めなきゃ」 「キャッシュカードも銀行に連絡したほうがいいぞ」  苑人はおずおずと切り出した。 「あの、ありません」  シンが先に口火を切った。 「とにかく警察に連絡しなきゃ」 「あ、あの、クレジットカードとか、キャッシュカードは持ってません。だって島ではそんなもの使えないから。だから持ってません」  えりこ、シン、コスの三人は顔を見合わせた。 「でもね、着替えとか他の荷物もあったんでしょ?」 「いいえ。島の土産だけ持って来たんです」  三人はまた顔を見合わせた。 「僕は両親を探すために東京に来たんです」 「えりこ、やっぱりこの子、連れて行くよ。いいでしょう?」  えりこはしばらく逡巡して、口を開いた。 「そうね、このままじゃかわいそうね」 「それに発表会に出ればギャラが出るでしょ? 人助けだよ、えりこ?」 「わかったわ、シン。あなたたち、ちゃんと彼の面倒を見られる?」  コスが前に出て来た。 「当たり前じゃん。こんなかわいい子、誰が放っておけるっていうの」 「ちょ、ちょっとコス。あなたまさか?」  えりこの顔には不安の色が滲んでいた。 「これってさ、もしかしたら運命じゃないのかな? 俺たちはタンジェントと出会う運命だったんだよ、きっと」 「そうだな、コス。きっとユークリッドが出会わせてくれたんだよ」  こうして不思議なえにしに導かれるように、三人は出会ったのだ。