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第3話 恋のはじまり

 東京で初めての夜が白々と明け始めた。  だが苑人には窓外に広がる世界が、模型でできた現実味のない風景に思えた。  苑人は僅かに赤く充血した目で、まんじりともせず朝を迎えたのだ。 「エント、聞いていなかった? 僕らは二人とも君を愛しているんだよ? 君に愛して欲しいのは僕らのうちのどちらか一人ではなく、僕ら二人だよ」  唐突なシンとコスからの告白を受けてから、まだほんの数時間しか経っていないのだから、無理もないかも知れない。  初めて東京へ出て来て疲れただろうからと案内されたゲストルームで、窓の外の夜景を見つめ続けていたのだ。  だがいくら時間が過ぎても、苑人は頭の中を整理できなかった。 (僕はシンに会った時から、特別な思いを抱いていた。それは間違いない。だけどコスはシンと見分けがつかないほどそっくりだ。顔も、声も、ふとした仕草さえもよく似ている。だけど僕は一度に二人を好きになることなんか出来るだろうか?)  だからと言って、どちらか一方を選ぶことに苑人は自信がなかった。苑人には、それは選択肢ではないように感じられてならなかったのだ。  二人を同等に愛することが出来るのか。  それが苑人を一晩中悩ませた核心だった。 「エント、もう目が覚めたか? 覚めたなら食事にする? それともお茶にする?」  ドアの向こうで声がした。けれどその声の主がシンか、コスか、声だけでは苑人には判別がつくはずはない。だが苑人には奇妙な確信があった。 (この声はシンだ)  だが同時に、外れたらどうしようかと不安もあった。 「あ、あの、お茶がいいです」  苑人の声はおのずと小さくなっていく。 「どうしたエント? 具合が悪いのか?」  ドアを開けて声の主が部屋に飛び込んできた。 「エント、元気がないな。大丈夫か?」 「シン?」  彼はベッドの縁に腰を降ろしている苑人に近づき、ふわりと苑人の肩に両手を回した。まるで白鳥が舞い降りてきたのかと思うほど優雅な動きだった。  整った顔立ちをした白鳥は、その佇まいだけで苑人の心を包み込んだ。 「俺がシンだとわかるのか?」 「うん」  シンは一度顔を離して、苑人の頬に両手を置き、開きかけた桜の蕾のような唇にそっと口づけをした。  始めは強張っていた苑人の表情がふっと緩む。  シンは目を開けたまま、苑人のうっとりとした顔を見つめると、安心したように瞳を閉じた。  苑人が目を開けると、シンの後ろにコスの顔が見えた。それは間違いなくコスだと苑人は感じた。比較ではなく心で感じたのだ。  二人は身体をぶつけることもなくすっと入れ替わった。苑人はまるでシンの後ろには目がついているのかと思って驚いた。 「不思議なものでも見るような目だね」  そう言って微笑むと、コスはシンよりもほんの少しだけ強く苑人の唇を吸った。  シンはどこか恍惚とした微笑みを浮かべて口を開いた。 「コス、エントは僕がシンだと分かっていたよ」 「え? 本当に?」  コスは驚いて唇を離すと、苑人の顔をじっと見つめ直した。  苑人の熱の籠った眼差しを見つめ、コスはもう一度苑人の唇にキスをした。 「シン、エントで二人目だな」 「ああそうだ、コス」  苑人は不思議そうな顔をした。 「僕たちを見分けることが出来るのは、えりこの他にはエントだけだって意味さ」  苑人の表情が明るくなる。 「だけどエントは眠れなかったようだな」 「ああ」  二人は苑人の事を理解していた。 「もしエントを悩ませたのが俺たちなら、謝るよエント」  シンはそう言いながら苑人の頭に手を置いた。 「でも今はその悩みが消えたように見えるけど?」  苑人は笑みを強くした。 「うん。僕は今わかったんだ。僕は二人を好きだよ」  シンとコスは顔を見合わせた。 「だけど、まだどうすればいいのかわからない」  するとシンは膝を折り、苑人の顔の高さに自分の顔を並べた。 「考える必要はない。エントが感じるままに行動すればいい」 「二人とも、準備は出来たの? 出かけるわよ。あら、美味しそうな朝食ね。こんなに早く起きてテーブル一杯に食事が並んでいるなんて初めてね」 「お迎えが来たようだ。エント、あれでもえりこは気を遣っているんだよ。俺たちのラブラブな場面と鉢合わせしないようにね」  コスが苑人の耳元に囁いた。 「えりこ、今行くから」 「シン、早くしてよ。クライアントを待たせないでちょうだい」  コスはクスりと笑った。 「ほら、えりこにはシンの声だとわかってるだろ?」 「ホントだ」  シンとコスはそれぞれに名残り惜しげな表情を浮かべながら、交互に苑人にキスをした。  どれがシンのキスで、どれがコスのキスなのか今の苑人にはわかっていた。シンは優しくて、包み込むようなキスで、コスは少し強引だけれど、情熱的なキスだと思った。 「本当ならエントも連れて行きたかったけれど、今日はゆっくりしてなさい」 「そうだな。寝ていないんじゃ身体がもたないだろうから」 「朝食は多めに作ったから、それを食べるんだよ。冷蔵庫にしまっておくから」  苑人はこくりと頷いた。  そして二人はまるで申し合わせたかのように絶妙なタイミングで、交互に苑人にハグをした。  苑人は三人を見送ってから、もう一度ベッドに潜り込んだ。遅れてきた眠りは苑人を優しく包み込み、そっと夢の中へと誘ってくれた。    そこは空港の小さな待合室だった。苑人はまだ幼い頃の自分がそこにいるのだと理解した。見覚えのある場所、見覚えのある人たち、そこには懐かしくて悲しい時間が流れていた。 「どうやらこの子は置き去りにされたようだな」 「ひどい親もいたものだ」  制服姿の警察官たちはひそひそ声で話しているようだが、幼い苑人にもすっかり聞こえていたのだ。  やがて苑人の祖母が警察官に連れられてやって来た。 「苑人、けーらーな。今日も東京から飛行機は来ないんだよ。けーらーな」  幼い苑人は両親を探すために、毎日のように家を抜け出しては島の小さな空港に来ていた。きっと両親が迎えに来てくれると信じて。 「じゃあおばあ、あとは大丈夫だね?」 「なんくるないさ。苑人、けーらーな」  幼い苑人には、その言葉が悲しい呪文のように感じられた。苑人はずっとあとになってその言葉の意味を知ったのだ。 「帰ろうね」  いつもおばあは苑人にそう言っていたのだ。  眠っている苑人の閉じた瞼の縁から一筋の涙が零れて、真っ白なシーツに染み込んだ。

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