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第4話 わだつみの誓い

 えりこの運転するバンを降り、一歩通りを曲がると、そこには苑人が見たこともない世界が広がっていた。  苑人は目を見開き呆然と立ち尽くした。  輪郭が掴めないほど雑然とした繁華街を埋め尽くす人、人、人。いったいどれほどの人がいるのだろうか。そしてこの街の空気には美味しそうな食べ物の香りがいくつもいくつも漂ってくる。  まるで五感にどっと押し寄せてくる情報の渦の只中に、いきなり放り込まれたような感覚に、苑人は自分の目や耳、鼻まで驚かされた。  髪に縫いぐるみをいくつも括りつけ、電話を耳に当てて独り言を口にする女の子たち。 「だからあ、今行くって」 「マルキュー? わかった」  ロックフェスティバルの舞台から降りてきたような、髪の毛を逆立てた男たちの集団。 「もう腹ヘリだよ」 「何か腹にぶちこもうぜ」  派手な豹柄の服を着た中年女性たち。 「あっち行ってみる?」 「あかんて、坂登るの難儀やわ」  苑人の耳は大勢の人の言葉を聴き分けた。  店と店の間からは音楽も聴こえてくる。昔聴いたあの歌も。苑人の大好きなあの歌が。  苑人は目を瞑り、懐かしい歌声に惹かれて二、三歩歩き出した。 「エント、だめだ」  苑人の異変に気付いたシンが彼の肩を掴んだ。いつの間にか苑人の真正面にはコスが立っていた。 「危ない、危ない。目を離したらどこへ行ってしまうかわからないな」 「目を離さなきゃいいだけさ」  シンはちょっぴり神経質だけれど苑人のことを大切に考えてくれる。コスは無関心を装いながら決して苑人からは目を離さない。そんな二人の気持ちが苑人に安らぎを覚えさせた。 「ここはどこ?」 「渋谷さ。まあ、わりと有名な街だけどね」  コスは苑人の視界を遮らない程度に身体を引いた。苑人は微かに顔を上気させたように赤らめ、人の行き交うざわめきを目で追った。 「下界に降りてきた天使が初めてこの世界を見るとしたら、きっとこんな顔をするんだろうな」  シンは目を細めて苑人を見つめた。 「ああ、きっとそうだ。エントは俺たちの元に現れた天使そのものだ」  コスがシンの言葉に応えた。  苑人には夢のような時間だった。シンとコスに連れられて、色々な洋服や靴が並べられた綺麗な店を次々と巡って行った。 「やっぱりエントにはスキニータイプのパンツが似合うな」 「黒だな。色は黒だ。上はシルクの白いシャツがいい。アスコットタイの付いたゴスロリタイプのメンズブラウスだ」 「あら。裾丈の長い白のブラウスなんて、何だかタカラジェンヌみたいね。素敵だわ」  駐車場に車を停めて合流したえりこも、いつの間にか瞳を輝かせながら、壁際に配置されたブラウスを取り上げてはうっとりとした顔をしている。モノトーンの落ち着いた店内にはクラシックのピアノ曲が流れていた。  まだ苑人が着替えを終えていない試着室のカーテンを開けたコスは言葉を失い、両目を見開いた。まるでその場に凍りついたような顔をしたコスの元に、シンが近付き、コスと同じように凍りついた。 「何をやっているの、二人とも?」  えりこが不審に思い声をかけた。照れ隠しが下手な二人に、えりこは追い討ちをかけるかの如く言葉を放った。 「覗きはだめよ、覗きは」 「違うぞえりこ! 覗きなんかじゃない。ただカーテンを開けるタイミングが……」  コスは珍しく言葉に詰まった。 「事故だよ、事故。仕方ないだろえりこ」  シンの言葉も説得力に欠けていた。 「全く二人ともデレデレね。見ていられないわホントに。ほら苑人も早く着替えて出ていらっしゃい」 「あ、はい!」  そこに現れたのは、辺りの光を集めて輝く天使そのものだと、その場にいた誰もが感じた。  短いけれど柔らかな髪、そよ風が吹いたかのように波を打つ胸元のアスコットタイ、はじらうように控えめな笑顔、そのどれもが観るものの視線を釘付けにした。 「あ、いや、似合っているよ、エント。だけどフリルのないシンプルな襟のブラウスも似合うよ、きっと」 「ああ、それも貰っていこう」  苑人の目の前では、モデルのいないファッションショーが繰り広げられる。苑人の前に後ろに真っ白なシャツがひらひらと舞い、次々と目の前のテーブルに重ねられていく。  店を出る頃には、四人の両手にはたくさんの紙袋が提げられていた。  楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去るものである。いつとは知れず陽は傾きかけていた。 「えりこ、お台場に行こうか。どうだ、海が見たくないかエント?」  苑人は瞳を輝かせた。 「海が見られるの?」  シンはくすりと笑った。 「さすがはコスだな。俺もそう思っていたところだ」 「オーケー、レインボーブリッジを渡っていくか!」  えりこはそう言うと、エンジンにぐっと気合いを入れ、ハンドルを切った。 「夕陽が見られるかも知れないよ、エント」 「ほんと?」 「ああ、本当だ」  シンはそっと苑人の右頰にキスをした。そしてコスは左頬に。  傾いた太陽は鮮やかなオレンジ色の光を投げかけ、苑人の頬を黄金色に染めていく。  背中に置かれていたコスの右手はそっと苑人の腰に回された。苑人は顎を引き、瞳を閉じて身体を硬くした。だがそれは決して不快なせいなどではなく、敏感に反応したことを悟られないための僅かな抵抗だった。 「エント、もう恥ずかしがらなくていいんだよ。それが自然なんだから」  コスの言葉は、苑人にはほんの少しだけ意地悪そうに聴こえた。 「コス、そんなことを正面から口にするから、エントが困っているじゃないか」 「ううん、困ってなんかないよ。ただ少し照れくさかっただけ。だって僕はシンとコスのことが大好きだから」  苑人は二人の顔を交互に見つめた。次はシンとコスの二人が照れる番だった。  不意に運転席から咳払いがした。えりこだ。 「あんた達そのくらいにしておいて。私の身にもなってよ。何だか後ろが気になって仕方ないんだから。事故起こしちゃったらどうするの?」  三人は三様に照れて下を向いた。 「ほら、夕陽が一段と輝いてきたわよ」 「……本当だ」  窓越しに苑人は夕陽を見つめた。そして小さく呟いた。 「……わだつみに誓います」  シンは苑人の黄金色の苑人の瞳を見つめた。 「わだつみ?」  コスが尋ねた。  苑人は視線を車内に戻すと、順番に二人の手を取った。 「わだつみは海の神様だよ。僕はわだつみにお礼を言ったんだ。シンとコスの二人に会わせてくれたことを感謝しますって」  苑人の言葉はその場にいた人間に、いや生きとし生けるもの全ての心に響く力を持っているようだった。

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