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BACKSTAGE / # 17. 拉致
ブダペストでの公演は素晴らしすぎた、それは確かだ。
しかしそれを差し引いて考えても、リュブリャナとザグレブでの公演はどちらもやや精彩を欠くものとなってしまった。バンドの不調をオーディエンスは敏感に感じとる。その結果、演奏する側と観客側の一体感もなく、所謂ノリが悪いライヴになってしまう。
中止にせずに済んでよかったはずなのだ。もしも同じ会場でもう一公演あったなら当然、中止せざるを得なかっただろうし、違う会場でもハンガリー国内なら難しかったかもしれない。実際、バンドの皆もリュブリャナでの公演が予定通りやれると聞いて喜んでいた。だが、やはり人ひとりが死んでしまう――しかも侵入者に銃で撃たれて――という惨事があったのは、ショックが大きかったようだ。無理もない。
「――ロニー? 考えこんでないで、飲んで」
「ああ、ありがとう」
エリーにワインを注がれ、ロニーは笑顔をつくってグラスを手にした。
ザグレブでのライヴのあと、一行は定番のクロアチア料理が美味しいと評判のレストランへやってきていた。
恒例の反省会と酒宴を兼ねた食事だったが、皆に笑顔はなくほとんど会話もなかった。なにか明るい話を振って雰囲気を変えるべきなのかもしれないが、まずロニー自身の気が塞いでしまっている。しっかりしないと、と思うのだが、いろいろなことに気をまわすと、プラハでまたなにかあったらどうしよう、ルカにボディガードをつけるべきだろうか、否、それならメンバー全員につけたほうがいいのじゃないか、事務所の警備員も増やさなければ……など、不安を数えているような状態になってしまう。
「これ、美味しいですね。ロニー、クロアチア料理は懐かしいんじゃないんですか」
ジェシに話しかけられ、ロニーはこれじゃ逆だわ、と苦笑した。エリーとジェシはいろいろ料理を取り分けあったりしながら、自分に気を遣ってくれている。ジェシの云ったとおり、アドリア海の海の幸をふんだんに使った料理は久しぶりだ。魚料理だけではない。ステーキにかかっているトリュフソースも、味わうのは何年かぶりだった。
ロニーは気を取り直してワインを一口飲むと、とりあえず今は皆も疲れているし、そういうことは明日プラハに戻ってからでいいかと思い、生牡蠣にレモンを絞った。
夜の気温は少し肌寒いくらいで、アルコールで軽く火照った躰には心地好かった。ホテルから然程離れていないこともあり、誰かが気晴らしに歩いて戻ろうと云いだしたとき、それに異を唱える者はいなかった。
人通りも多くはなく、プラハとよく似た街並みはナトリウムランプに照らされて明るい。ロニーもまあ腹ごなしにはちょうどいいかと、肩を並べて歩くユーリやテディたちを先導するかのようにやや距離を空け、エリーと並んで歩いていた。
――レストランを出て、まだ三分と経っていなかった。背後から近づいてきた車の音に振り返ると、シルバーのステーションワゴンが路肩に寄せて停車した。荒い運転だな、と顔を顰めるや否や、後部座席のドアが開き――
「えっ?」
「おい!!」
男がひとり降りてきたと思ったらいきなりテディの腕と襟首を掴み、車へと引き摺っていった。ユーリがすぐに反応し、声をあげながら手を伸ばす。が、シートにテディを押しこんだ男は振り向きざまにユーリの腹を蹴り飛ばし、車に滑るように乗るとドアをばんっと閉めてしまった。
「待て!!」
エンジンが唸る。待てと叫んだユーリは路肩に転がったまま、他の皆は一瞬のことに茫然としている。一拍遅れてルカが「テディ!!」と叫んだ声で、ロニーはようやく状況を把握した。
その場にバッグを放りだし、無我夢中で道路に飛びだす。車がきゅるるる……と音をたてて急発進する。その瞬間、ロニーは車に飛びつき、ルーフレールに掴まった。
「待ちなさい!! テディ、テディをどうするつもりなの……!」
「ロニー!! 無茶だ!」
車が走りだし、ロニーはそのまま引き摺られ始めた。死に物狂いでルーフレールにしがみつき、ヒールがアスファルトに削られていく。ロニーに気づいたのか、車がいきなり右へ左へ蛇行する。そのときだった。
「手を離せロニー!!」
すぐ近くで声がした。離せと云われなくても既に限界だった。ロニーは必死に掴まっていた手から力が抜けるのを感じ、振り落とされる! と目を閉じた。天地の感覚がないなか、遠ざかっていくエンジン音だけが聞こえる。ロニーの躰はアスファルトの上を勢いよく転が――りはせず、逞しい腕のなかにすっぽりと収まっていた。痛みを感じたりもしていない。
聞こえてくるのは心臓の音と、上下する胸と同じペースを刻んでいる息遣いだけだった。
「――怪我はないか!? まったく……なんて無茶をするんだあんたは!」
「だって!! 私には責任があるのよ! ああどうしよう、テディが、テディが――」
「落ち着け、連中はテディを殺したりしない。取引のための人質にする気だ。だから……しばらくは大丈夫だ」
「……どういうこと? あなた、何者なの、いったいなにを知ってるの?」
イヴァンの脚の上に跨ったまま、ロニーはじっとイヴァンを見つめた。返答をごまかすかのように、痛 てててとイヴァンが起きあがる。同時にルカたちも皆駆け寄ってきた。イヴァンの差しだした手に掴まりロニーも立ちあがったが、ぽきりとヒールがとれてしまい靴を脱ぐ。
「ロニー、大丈夫!?」
「ロニー、テディは……」
少し遅れて、腹を押さえたユーリがドリューに支えられ、とぼとぼと歩いてきた。もともとのきつい顔つきが、さらに殺気立って凄みを増している。
「ロニー。とりあえず通報して、車の特徴とナンバーを警察に伝えた。ここにもうじき来る」
エリーがそう云いながらバッグを渡してくれた。ロニーはさすがエリーだと思いながら「エリー、ありがとう……!」と泣きそうな声で返したが、イヴァンは「無駄だ」と首を振った。
「見られた車にいつまでも乗ってるわけがない。どこかで乗り棄てられてるのがみつかるだけだろうな」
「なんで……、なんでテディが攫われるんだ……」
「ちくしょう、俺がすぐ傍にいたのに! なんなんだ、なんなんだよあいつらは! テディになにかしやがったら絶対殺してやる……!」
ルカはわけがわからないという様子で、ただ茫然としていた。ユーリは物騒なことを云っているが、それだけショックが大きいのだろう。だがユーリなら、もしもそんな機会が訪れでもしたら本当にやりかねないかもしれない。
ロニーは脱いだ靴を拾うとイヴァンに真っ直ぐ向き、ルカたちにも聞こえるはっきりとした声で尋ねた。
「あなた、テディは殺されたりしない、取引のための人質だって云ったわよね? どういうことなのか、いったいなにが起こってるのか、全部話して。あなたが本当は、何者なのかも」
ルカたちが一斉にイヴァンに注目する。ユーリはつかつかと近寄っていき、イヴァンの襟首を両手で掴みあげた。
「どういうことだ、てめえもいったいなんなんだ……、テディはどこに連れていかれたんだ、あいつらの目的はなんなんだ! 洗い浚い知ってることを話しやがれ!」
するとイヴァンは、自分を締めあげている両手をぱんっと払ったかと思うとユーリをくるりとターンさせ、あっという間に腕を背 にまわして捕らえてしまった。
「……! てめえ、まじで何者 だよ。刑事 か?」
「悪いが、話せば長くなる。警察が来たようだし、俺のことは後にしてもらおうか。大丈夫、テディを攫った奴らは向こうから連絡してくるはずだ。警察の聴取が終わったら、ホテルでじっとしてろ。……ロニー、俺を信じて待っててくれ。今度こそちゃんと話す」
そう云ってイヴァンは、ロニーたちが近づいてくるパトカーに気を取られている隙に、薄暗い路地のほうへと姿を消してしまった。
* * *
「――離せ!! なんなんだよ、離せよ! 降ろしてくれ!」
リアシートに押しこまれ、いかにもならず者風な恰好の男たちに挟まれて、テディは大声をだした。腕をがっちりと掴んでいるこの男たちは、自分をどこに連れていく気だろうと不安と恐怖が膨れあがる。これからなにが起こるのかはさっぱりわからないが、自分たちの部屋やルカの楽屋を荒らし、鏡に脅迫めいたメッセージを残したのがこの連中だということだけは見当がついた。
ルカを責めながらも実は半信半疑だったが、本当に彼は人妻と浮気していたのだろうか。この連中はその亭主の仲間なのか? でもどうして自分が拉致されるのだろう。否、ルカならいいというわけでもないが、自分はルカと間違われているのか?
なんにせよ、こんなのはごめんだ。なんとかして逃げださないと――テディは腕を振り解こうと、懸命に暴れた。
「なあ、いったい俺をどこに連れていくんだ。なにがしたいんだよ、俺らになにか恨みでもあるのか? エミルを襲って警備員を撃ったのもあんたたちだろ?」
そして、自分の云った言葉にひやりとした。――だとしたら、こいつらは銃を持っている。
そのとき、助手席にいる髭面の男が振り返り「やかましい。しばらく眠らせとけ」と云った。撃たれるのか!? と思い、テディはびくりと身を竦めた。だが、右側の男が取りだしたのは銃ではなく、吸入器 らしきものだった。男は透明な酸素マスクのような部分を、テディの口許に押しつけた。マスクのなかでしゅうぅ、と微かな異臭がした。テディは顔を背けようとしたが、左側の男に頭を押さえられ、もがいているうち無意識に吸いこんでしまった。
あ、やばいと思ったその一瞬後――ぐらりと世界が闇に落ち、テディは意識を失った。
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