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BACKSTAGE / # 22. What Goes On

「――どうした? 食べないのか」  まるでなにかを鑑賞するように、スーツの男はどっかりと布張りのチェアに腰掛け、自分を見ていた。どうやら男は、自分を拉致監禁しているこの組織の親玉らしい。  男にそんなことを云われ、テディは口許に押しつけられているパンから、ふいと顔を逸らした。相変わらず椅子に坐らされて、足首はそれぞれ椅子の脚に、両手は背凭れの後ろで縛られまったく動けない状態だったが、実はとても腹が減っていたし喉も渇いていた。だが云われるまま素直に食べてなんかやるものかという気分だったのだ。 「さっき腹を殴られて吐いたから、食欲がないんだよ」  傍に立っている見張り役の男が「自業自得だろうが!」と吐き棄てるように云い、手に持っていたクロワッサンのような小さなパンを壁際のテーブルに叩きつけた。そこにはまだパンが入っているらしい紙袋と、ころんと丸みのあるカップ、アクアヴィヴァのボトルがあった。  見張りの男はテディにころっと騙されたのを根に持っているようで、今にも噛みつかんばかりの表情でテディを睨みつけている。その様子に、スーツの男がやれやれと苦笑を溢した。 「電話のときはしおらしかったのに、ずいぶんと態度が違うもんだな」 「恋人と話すのとあんたたちと話すのが同じ調子なわけないでしょ。それに、そんなごつい手であーんとかしてもらってもね。自分でなら食べようって気になるかも。食うときくらい(ほど)いてよ」 「さっきは好みとか云って騙しやがって、解くわけねえだろ!」  相当頭にきている様子で男が云うと、その背後に立っているスキンヘッドの男がげらげらと声をあげて笑った。 「スケベ心起こして騙されるほうが悪ぃんだ。まんまと逃げられるところだったんだぞ、これが他の奴ならボリスみたいに――」 「よけいなお喋りはするな」  スーツの男の鋭い口調に、スキンヘッドの男がぴたりと言葉を切る。そして「おまえも、そう怒るな。片手だけ解いてやれ」とスーツの男が続けると、見張りの男は気に入らなさそうにむっと膨れた。だが黙ったまま逆らわず、すぐにロープを解く。  右手だけ自由になると、テディはすっかり痣になってしまった手首をぶらぶらと振った。その手にパンを渡されたが、テディは膝に置き「スープを先にちょうだい。喉がからからでパンなんか食えないよ」と云った。  この性悪が、やっぱり注文が多い、と男がぶつぶつ云いながらもカップを持たせてくれる。中身はすっかり冷めてしまっていたが、豆の入った野菜スープのようなもので、素朴な味だった。口にすると眠らせていた空腹感が目覚めたらしく、腹が暢気な音を鳴らした。テディは一息にスープを飲み干すとカップを膝の上に置き、底に残った豆などをの具をパンで掬ってきれいに平らげた。  人心地がついたところで、テディは「水」と手を伸ばした。見張りの男が何様だと云わんばかりにボトルのキャップを開け、テディの手に叩きつける。 「おい、そうかっかするな。俺がいないあいだに怪我させたりするなよ、明日は大事な恋人と再会させてやれるんだからな」 「明日?」  こっちはさっさと帰してほしいのに、ずいぶんのんびりしているんだなとテディは男の顔を見た。「ルカはあんたたちの欲しがってるものを渡すって云ったんだろ? もうこんなこと早く終わらせてよ、なんで明日なの」 「こっちもいろいろと準備があってね。俺たちも早く終わらせたいんだが」  男は本音でそう云っているように、ひょいと肩を竦めた。「なにか妙な小細工をしてないか確かめたりもする必要があるんでな。君も祈っていてくれ、君の仲間たちが下手なことをしないように」 「……いったい、あんたたちが捜してるものってなんなの。なんでそれをルカが持ってるわけ? どうして俺がこんな目に遭ってるのか、教えてくれる気はないの」 「知りたいなら、教えてやってもいい」  男はポケットから銀のレリーフが美しいケースをだすと、中からミニシガリロを一本取り、咥えた。背後にいたスキンヘッドの大男が、さっとジッポーを手に火をつける。 「……あんたたちのと、なにか関係が?」 「ま、そんなところだ。でかい商売さ。……なあ、知ってるか?」  微かにスパイシーさを感じる甘い香りを漂わせ、男は云った。「欧州で出廻ってるヘロインのおよそ八割はアフガン産、トルコを経由して持ちこまれる。俺たちはそのうちのごく一部を船で運んでた。ブルガリアのヴァルナ港で水揚げして、セルビアやハンガリーのと取引するんだ。この商売のいいところは、消費する客は死なない限り増える一方ってことだ」 「数としてはそうなんだろうけど、死ななくても客じゃなくなることはあるでしょ」 「さて、どうかな。それは一時的なものじゃないかと思うがね」  テディは男を睨みつけたが、話は続いた。 「商売はずっと順調だった。ところが、とうとうブルガリア警察に目をつけられた。深夜、ヴァルナ港を目指しているときに待ち伏せされてると知って、部下たちは荷に重石(おもし)をつけ、海の底に棄てた。半端な量じゃない。港で待ち伏せてる警察に感づかれないよう、部下たちは急いで全部の荷を次々と海に放りこんだ。そして、一緒に乗っていたある女に座標を記録しておけと云ったんだ。……その女が、実は警察の手先だったとは知らずにな」  思っていたよりもずっと詳しい話をする男に、テディは厭な予感が足許から這いあがってくるのを感じていた。――訊かないほうがよかったかもしれない。 「港の手入れでは、連中は空振りに終わった。なにしろ肝心の荷がないんだからね。俺たちはほとぼりが冷めてから荷を引きあげるつもりだった……ところが、そのうちに女がプロフディヴで不審な動きを見せた。女は仲間に電話をかけ、座標を記録したフラッシュメモリを渡すと云っていた。それでわかったんだ、こっちが持ってたフラッシュメモリは偽物だとね。俺たちは逃げた女を追って、メモリを取り返そうと肚まで割いて捜したんだが、残念ながらみつからなかった」  肚まで割いて――それが言葉どおりの意味だと察し、思わずぞっと背筋が凍る。 「そして女を追っていた部下の話で、やっとわかったのさ。女は逃げている途中でファンに囲まれていたジー・デヴィールのヴォーカルにわざとぶつかり、メモリを託したんだってことがね」  ――テディの頭のなかで、USBフラッシュドライブのよくある形状と、ルカのバッグに入っていたあの口紅がシルエットになり、見事に重なった。  USBフラッシュドライブは、今ではかなり小さいものもある。口紅のあのケースなら、ちょっと弄れば中にフラッシュメモリを仕込むことは容易くできるだろう。間違いないと思った。  そして、ルカは浮気などしていなかったのだという安堵と、ではルカは受け渡し場所になにを持ってくる気なのかという不安が同時に襲ってきた。なにしろ自分はてっきりルカが浮気をした証拠だと思いこんで、棄てることもできず手許に置いておく気にもなれず、ある場所に隠してしまったのだから。 「……もしも……、ルカが最初云ってたのが本当で、メモリのことなんて気づいてなくて、知らないあいだに失くしてたらどうするの」 「うん? 彼はもう自分が持ってると云ったしな。もしもそれが嘘で、俺たちの大事なものを紛失したなんてことになったら、もちろんその責任はとってもらうさ。そうだな、世界中で大人気の大スターさんだ。売りに出せばいくらでも払うって奴がいるだろうな。ああ、そうなったらおまえもに戻らせてやろう。見たところ、まだ数年は客がつきそうだ。……ま、売り物にならなくなったら処分されるだろうがな」  テディは顔から血の気が引くのを感じた。――殺される。否、きっと本物のUSBフラッシュドライブを渡したところで、自分もルカも皆殺すつもりなのだろう。平然と肚を割いて捜しものをしたなんてことを話せるような奴らだ、端から生かして帰すつもりなどなかったに違いない。だからこうしてなにもかも話し、顔を晒して平然としているのだ。 「明日は朝早くから移動することになる。腹も膨れただろうし、今夜はゆっくり眠ってくれ」  スーツの男はそう云って部屋を出ていった。スキンヘッドの男と、見張り役の男もその後に続いた。  テディは部屋にひとりで残された。右手も自由なままだ。忘れているのだろうか。  テディはなんとか逃げだしてルカに知らせなければと右手を後ろに伸ばし、左手首に巻きつけられているロープを探った。結び目はあるが、ロープの端がない。いったん結んで下にまわし、椅子の脚に掛けて結ばれているようだった。くそ、とテディはなにかないかと部屋を見まわした。蝋燭が目に入った。だがそのか細い炎では、巧くロープを焼き切る前に火が消えてしまうような気がした。だめだ、他になにか――更に辺りを見まわす。がらんとした部屋、板が打ち付けられた窓、部屋の奥、細く開いたままのドア――そして思いだした。バスルームに割れたタイルがある。  テディは重心を左にかけ、右手で椅子の片側を持ちあげるようにして、椅子ごとバスルームのほうへ動こうとした。バスルームにさえ入れれば、タイルの欠片でロープを切れるかもしれない。だが動くごとにがたがたと音がし、床もぎしっ、ぎしっと軋んだ。なんとか動こうとするとどうしても音をたててしまう。テディは唇を噛んだ。  そしてほとんど移動などできないうちにドアが開き、テディははっとして入ってきた男を見た。 「縛り直すのを忘れたと思ったか? 残念だったな、こうするためだ」  男はその手にシリンジを持っていた。思わず目を瞠り、躰を強張らせながら身を捩る。 「それは――やめてくれ! 頼む、もう逃げたりしないからそれだけは――」 「喜べよ、だろ?」  為す術もなく、テディは男のやることを見ているしかなかった――ぐっと肘を掴まれ、シャツの袖を捲りあげて、男が血管を指で辿る。 「動くなよ、血まみれになっちまう」  過去に何度も注射を繰り返した細い腕は血管が浮き立っていて、男が針を突き立てるのは容易だった。プランジャーロッドが押しこまれ、中の僅かな溶液が静脈に注がれる。  程無く全身を駆け巡った凄まじい恍惚感(ラッシュ)に、テディは抵抗しようとする気概や殺されるかもしれないという怖れを、あっさりと手放した。        * * *  食欲などなくても、空腹などまったく感じなくても食事の時間は巡ってくる。ロニーは時計を見て気づくたびにドリューやジェシ、ユーリとルカにどうする? と訊いてみたが皆、首を横に振るばかりで、相変わらず誰も食事をしようとは思わないようだった。  とはいえ、ずっとこうしているわけにもいかない。籠もっていれば事態が好転するというわけでもなし、精神衛生上もよくないと思い、ロニーはジェシとエリー、ドリューとユーリのぶんだけレストランに予約をし、自分とルカ、そしてステフのぶんとして、またルームサービスを頼んだ。  そして夕食の時間になった頃。ロニーは少しでも気分転換をしてきてねとジェシとエリーに云い、レストランへ送りだした。ドリューも気分じゃないがしょうがない、どうせ食べないわけにもいかないしなと云いながらきちんと身支度を整えてきてくれた。しかしユーリはやはり気が進まないようだった。ロニーはユーリに、あなたを頼りにしている、だからちゃんと食べて、しっかりしていてほしいと云った。  ユーリはわかった、と頷いて、ドリューとレストランに行ってくれた。  ステフは犯人からの電話のあと一度部屋を出たが、十五分ほどで戻ってきていた。ラップトップと捜査資料らしき分厚いファイルを持ちこんだ彼は、ダイニングテーブルでBIAの仲間と情報のやり取りをしているようだった。  そしてノックの音がし、ルームサービスが運ばれてきた。メニューは任せると云った覚えがあるが、ホテル側もなにか部屋に籠もる事情があるということは察しているのだろう。ブロデットというシーフードの煮込みや鮪のカツレツ、トリュフソースのパスタの他は、リゾットやプロシュートとチーズの盛り合わせに一口サイズのサンドウィッチ、フルーツなど、手軽に食べられるものがほとんどだった。  なかでもいちばんありがたかったのは、ロジャータというオレンジ風味のシンプルなカスタードプディングだった。つるりと喉越しの良いプディングはホイップクリームが添えられていて甘く、苦味のあるカラメルソースが微かに主張するオレンジの香りと絶妙に合っていた。  疲れているときには甘いもの、とはよく聞くが、これほど実感したことはなかったかもしれないとロニーは思った。 「ステフ、適当に取り分けたからここに置くわね。飲み物はなにがいい?」  ラップトップの前から動かないステフのために、ロニーは皿に少しずつ盛りつけ、邪魔にならない場所に置いた。 「ああ、ありがとう……コーヒーを頼めるかな」  わかったわとそこから離れようとすると、ステフが「ロニー」と名前を呼んだ。 「ルカの様子は? 君も少しは食べたのか」 「私は大丈夫。ルカも、テディの声が聞けたからちょっとはましみたい。そのプディング、美味しいわよ。甘くて……テディったらついてないわね。彼、甘いものに目がないの。食べてたらきっと嬉しそうに――」  ついそんなことを考えてしまい、思わず声が詰まる。  やだ、こんなふうに泣いたらまるでテディが無事に戻ってこないみたいじゃない。ロニーは胸に手を当て、落ち着こうと深呼吸をした。私がこんなことでどうするの、私がしっかりしていなければ――そう自分に言い聞かせていると、不意にふわりと背中に両手がまわされた。  そっと優しく抱き寄せられ、逞しい胸の温かさを感じる。 「ロニー、大丈夫だ。テディは必ず救けだす。約束する。だから、俺を信じて力を貸してくれ」  真摯な声に、思わず張っていた気が緩む。ステフの胸のなかで、ロニーは何度も頷いた。 「ええ、おねがい……! 約束よ、必ずテディを無事に連れ戻して……!」  そうして、気持ちが落ち着いたところで身を離し、照れくささをごまかすかのように「コーヒーを淹れるわね」と、ロニーがワゴンのほうに戻ったそのとき。 「きた……!」  ソファに坐っていたルカが顔をあげてこっちを見た。その前に置かれていたフリップフォンが、着信音を響かせながらヴァイブレーションの振動で踊っている。 「――ルカ、落ち着いて……」  素早く移動してきたステフが、ボイスレコーダーをテーブルに置いてルカを見る。 「よし、録音を始めた。ルカ、さっきのようにスピーカーモードにして話してくれ」  ステフに向かって頷くと、ルカはフリップフォンを手に取り、ゆっくりと開いた。

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