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BACKSTAGE / # 24. Eight Miles High

 ふと目が醒め、ロニーはすぐ充電ケーブルに繋いだスマートフォンに手を伸ばした。ベッドサイドのランプを淡く灯してあるだけの部屋で、ディスプレイの光が眩く手許を照らしだす。表示された時計を見ると、念のためにとアラームをセットした時刻のちょうど三十分前だった。  ベッドでちゃんと躰を休めておかないとと思いながらも、シーツに横たわって眠る気までは起きず、ヘッドボードに凭せかけたピローやクッションに背中を預けた状態でうとうとしていた。それでもソファで坐ったままの一瞬の微睡みよりはずっと、眠ったという実感があった。  メールや着信はなにも入っていなかった。あと一時間もすれば陽が昇るが、ステフたちBIAは、まだテディの監禁されている場所をみつけられていないということか。期待は萎んで落胆とその名を変え、代わりに不安が膨れあがるのを感じたが、それでもステフを信じて祈るしかない。自分には、電話をかけてきた男に云われたとおり朝六時までにザグレブ国際空港に行き、ルカと一緒にチャーター機でソフィアに向かうことしかできないのだ。  昨夜はルカやユーリたち皆、体力維持のためにちゃんと眠っておけと部屋に戻らせたが、彼らはちゃんとベッドに入っただろうか。ユーリはまた潰れるまで酒を飲んでいたかもしれないが、それでも眠らないよりはましなのかもしれない。延泊を頼むとき、部屋数を減らしユーリとドリューを同室にしておいてよかったと思う。ジェシも心配だが、意外なことにエリーのほうが参っているようなので、彼はかえって大丈夫かもしれない。  そしてルカは――一時は本当に正気を失ってしまうのではないか、もしもこのままテディが無事に戻らないようなことがあったら迷わず跡を追うのではないかとまで思えたが、昨夜はなんだか覚悟を決めたような様子だった。  部屋へと見送るとき、彼は云った――殺されるとか、そんなの想像できないんだ。あいつは帰ってくるよ。あのステフって奴を信じてるっていうわけじゃなくて……俺はやっぱり、テディを信じてるんだ。  この局面でそう云えるルカを、あらためて強いと感じた。テディもだが、彼らは時に土壇場でふつうは有り得ないと思うほどのしぶとさを発揮する。  そうとも。きっとテディは無事に帰ってくる。ステフがそう約束してくれたのだ、信じなければ――ロニーは目を閉じ、気持ちを切り替えるようにゆっくりと息を吐くと、ベッドから降りてバスルームに向かった。  ホテルからザグレブ国際空港までは、車で十五分ほどの距離だ。ロニーとルカはまだ鳥たちの声も聞こえない、明けやらぬ時刻のうちに、余裕を持ってホテルを出ることにした。  まだ暗くホテル内もしんとしているというのに、ルカはもちろん、わざわざ起こしたり声をかけるつもりはなかったユーリやドリュー、ジェシたちも皆、ホテルを出る前にスイートに集まって見送ってくれた。自分が行けないことが悔しくてたまらないのだろう、ユーリは懸命になにかを堪らえている表情で、ルカにテディを頼む、必ず無事に連れ戻してくれと何度も云いながらハグをした。  タクシーで人影も疎らな空港に着き、カウンターで六時にプライベートジェットを依頼してあるはずなんですがと云うと、はい伺っておりますとすぐに専用ターミナルへと案内された。定員八名のゆとりのある機内には、ルカとロニーの他はひとりのキャビンアテンダント、そしてコックピットに操縦士がいるだけだった。  心のなかで、ロニーはぎりぎりまで期待していた――着信音が鳴って、もう離陸したか? まだか、よかった。もうテディは保護したから、飛行機には乗らなくていいぞ、と、ステフがそう云ってくれるのを。しかし、そんなことを思いながら手にしたスマートフォンの画面をじっと見つめていても、表示された時計はただ無情に時を刻んでいるだけだった。        * * * 「へへっ、やっぱりこいつには勝てねえか。抵抗しないんだな」 「一回も二回も同じだよ。おかげで三年間が水の泡だ」  血管に針が滑りこむのを、テディは冷めた目で見つめていた。男に云ったとおり、一度躰に思いださせてしまえばあとは二回打とうが十回打とうが同じだし、そもそもやめてくれ、もう打たないでくれと云ったところで、それが聞き届けられるはずもなかった。 「じゃ、おとなしくいい夢みてろよ」  見張りの男はテディにヘロインを打つと、シリンジを持ってそのまま部屋から出ていった。  また手を縛り直さないで行ったな、と閉ざされたドアを見たそのとき――全身が総毛立つような、むず痒い快感が走り抜け、つい今し方まで考えていたなにもかもがどうでもよくなった。テディはとろりとした空気のなかで揺蕩(たゆた)うように目を閉じ、多幸感にぐったりと身を任せた。  ――夜が明けてから、おそらく一時間か一時間半ほどが経った頃――。夢なのか、それとも麻薬がみせる幻覚なのだろうか。テディは拘束されている部屋の天井をすり抜け、建物の屋上さえも突き抜けて、空の高いところから地上を見下ろしていた。  一度逃げそびれたときに見た落書きだらけの廃屋や瓦礫の陰に、いくつもの黒い影が見えた。黒い影のひとつを目を凝らして見てみる。男だった。男は黒いヘルメットと目出し帽(バラクラヴァ)を被り、真っ黒なタクティカルウェアと防弾ベストに身を包んでいる。大腿部にはベルトで拳銃(ハンドガン)のホルダーが取り付けられていて、両手には短機関銃(サブマシンガン)まで抱えていた。ニュースや映画で見たような、警察かなにかの特殊部隊のような恰好だ。  武装した男たちはざっと見渡しただけでも二十人はいて、眼下にある建物をすっかり包囲していた。  幽体離脱じゃあるまいし、こんなふうに空から見渡せるわけがない。だから、これはやはり麻薬と期待がみせているただの夢で、目が醒めたら相変わらず椅子に縛られているんだろうと、テディは思った。  が、そのとき―― 「囲まれてるぞ!」 「くそっ、表だ! イゴル、アレク、ミロシュ来い!」  ドアの外でそんな声がして、ばたばたという何人もの足音とチャッ、カチャンという最近どこかで聞いたような音が続けて耳に届いた。なんだ……? と目を開けると同時に部屋のドアも勢いよく開けられ、アサルトライフルを手にしたスキンヘッドの男が見張りの男に向かって「そいつを連れて裏から出ろ! ボスが下にいる」と早口に云った。  男が慌てたようにナイフを取りだし、ロープを切る。ずっと自分の自由を奪っていたものが、ぱらりと床に落ちた。ああ、やっと帰れるのかな、と思いながら手脚をうーんと伸ばそうとすると、ぐいと腕を掴んで立たされた。 「早く、こっちだ! しゃきっと歩け!!」  云われる傍から床に坐りこもうとするテディに、男はくそ、と毒づきながら右腕を自分の肩にまわさせ、左手でジーンズのベルト部分をぐっと掴んだ。そのまま引き摺られるようにして部屋を出て、階段を下り始めたとき――パァン、パン、パンッ、タタッ、タタタタッ、という渇いた音が聞こえた。 「くそっ、なんでここが――」  短く乾いた音は拳銃、小刻みに連続して響く低く籠もる音は短機関銃か――どうやら銃撃戦になっているらしいと、テディは夢か現かは判断できないままにそう思った。途切れることなく響き渡る発砲音と、時折微かに聞こえる短い叫び。階段を踏む足に体重がかかり、歩いている自覚がでるにつれ少しずつ頭がはっきりとし始めて、テディはやっと今の状況を把握した。  ――銃撃戦。夢でも映画でもない、現実だ。いま自分は、銃弾が飛び交う真っ只中にいる。  男が自分を連れてここから逃げようとしているのはわかったが、外に出ること自体が危険すぎる。ここの連中と撃ち合っているということは外にいるのは警察なのだろうが、こんな状況では下手をすると自分も撃たれてしまうのではないか――やっとまともに働いた頭でそう危惧し、テディは階段途中でぴたりと足を止めた。 「おい、急げ――」 「いやだ! 撃たれるよ、収まるまで隠れてる」 「そういうわけにはいかねえんだよ! おとなしく云うことを聞きやがれ!」 「なにをやってる!! 早く来い!」  男がテディの腕を引っ張り、大きな声をだしているとき、階段の下から声がした。足音に混じって絶え間なく銃声がこだまする。スキンヘッドの男とスーツ姿の男はテディに銃を向け、「さっさと来るんだ、云うことを聞けないならこの場で殺すぞ!」と凄みのある声で云った。  先頭に立たされ、背中に銃を突きつけられてしかたなく階段を下りる。だんだんと近くなる銃声に、自然と頭が低くなる。手摺にしがみつくようにしてようやく一階まで辿り着くと、テディが逃げだそうと開けたあの扉の陰で、ふたりの男が短機関銃(MP5)をぶっ放していた。そのすぐ傍に人の形をしたものがふたつ横たわっているのが、逆光に浮かびあがって見える。思わず立ち竦むと「止まるな、来い!」と、ぐいと腕を引かれた。  スキンヘッドの男の後に続き、テディは見張りの男に背中を押され、広いホールを小走りに横切った。背後に銃声を聞きながら廊下を進み、両開きの扉の中に入る。そこは厨房だったらしく、奥へと伸びる空間にはステンレスのシンクや作業台などがずらりと並んでいた。そのあいだを進んでいくと、突き当りにスイングドアがあった。さらにそこを通り抜け、見張りの男がテディの前に出て「こっちだ!」と左手にあるドアを開けた。薄暗かった廊下に光が溢れる。  その刹那、小刻みに響く発砲音が耳を(つんざ)いた。すぐ眼の前で男が長い髪を振り乱しながら、奇妙に踴るように躰を揺らして(くずお)れる。テディは目を大きく見開き、男に向かって手を伸ばした。その腕を掴まれ三歩ほど引き戻されながら、テディは男の名前を呼ぼうとした。 「ドラガン!!」  だが、その名を叫んだのは自分ではなかった。スーツの男がそう呼ぶのを聞いて、テディは名前など知らなかったのだと気がついた。あぁ、と表情が複雑な感情に歪み、声にならない声が漏れる。ちくしょう、と銃を握った腕を伸ばすスーツの男を「奥へ!」と促し、スキンヘッドの男が(たお)れた男を跨いで外に飛びだす。うおおおと吠えながら、男は銃弾の飛んできたほうに向けてM4カービンを乱射した。が、違う角度から現れた黒い部隊に肩を撃たれ、振り返ってさらに銃弾を浴びた。男が糸の切れたマリオネットのように地面に崩れ――途端に、耳がおかしくなったかと思うような静寂が落ちる。  硝煙と血の匂い。額には汗が滲んでいるのに、肌は凍えるように総毛立っていた。傍で舌打ちをする音が聞こえ、はっと我に返るとスーツの男が自分の腕を捕らえ、「くそっ!」と毒づきながら厨房へ引っ張りこんだ。ちょうど厨房の真ん中あたり、作業台の陰で身を潜め、テディを盾にするようにして男が様子を窺う。薄暗い屋内に外からの光が射しこみ、きらきらと埃が舞うのが見える。と、その光がちらちらと揺れて瞬いた。 「――BIAだ! 銃をゆっくりと足許に置いて両手をあげろ!!」  男はもう逃げ場がないと覚ったのか、テディの頭に銃を突きつけたまま声を張りあげた。 「失せろ!! 下がって道をあけてもらおうか、邪魔をするとこいつの頭に穴が空くぞ!」 「諦めろ!! ここは完全に包囲した、仲間ももう誰も残ってやしないぞ! 銃を棄てて人質を解放するんだ、投降して弁護士を呼ぶのがおまえにとっての最善だ!」  冷や汗が頬を伝う。もうこの男に勝ち目がないのは火を見るより明らかだが、それは自分が無事に救かることとイコールではない。  さっきまでとは打って変わって静まりかえった建物のなか、微かにひたひたとゴム底の足音と気配が近づいてくるのがわかる。この男に殺されるか、盾になって撃たれるか――何万人もの依存症患者や犠牲者を生みだす麻薬密輸組織のボスだ。自分は拉致された被害者で、世界的に有名なバンドの一員だということを加味しても、天秤にかければたとえ巻き添えにしてでもBIAはこの男を射殺することのほうを選ぶのではないか。――否、もっと単純に、自分のことなどBIAも警察もたかが元ジャンキーの屑程度にしか考えていないかもしれない。いや、自分のことなど知られていないということも有り得る。ここはチェコでもイギリスでもない。ツアーで訪れる予定すらない国なのだ。  そんなことを考えていると、男が自分を立たせた。顳顬(こめかみ)に銃を突きつけられ、いくつもの銃口が自分のほうに向いているのを感じて、テディはそっと両手をあげた。自分の背後に身を隠すようにしながら、男は少しずつ後退った。表へ戻るつもりなのだろうか。こうして自分を盾にしたまま――無駄な悪足掻きだと思った。巧く表から出て車に乗りこめたとしても、逃げられるわけがない。  男はテディのシャツを掴んで退路へと誘導し、銃口を威嚇するように周囲にも向け、また頭に突きつけるという動作を繰り返している。そうするうちに物陰から覗く、光を背にして浮かぶシルエットが増えてゆく。いくつもの銃口が自分の背後にいる男を狙っている。まるで、スコープ越しには自分など見えていないかのように。  そのとき、なにかがきらりと光ったような気がした。ふと見ると、自分の肩口に赤い点が光っていた。狙撃手(スナイパー)が狙っているのだ。下手に動かないほうがいいのかもしれないが――命が救われるとしても肩の負傷はありがたくないなと、テディは唇を噛んだ。  『なにがあっても、俺たちはそこに観客が待っている以上、   最高の演奏をしなきゃいけないんだ――』  ルカの言葉を思いだす。もしも生きて戻れるなら、ベースが弾けなきゃ意味がない。  テディは銃口が頭から離れた瞬間に、さっと身を屈めた。低く籠もるような音が二度響き、男が呻く。が、自分が動いた所為なのか、銃弾は男の腕を掠めただけのようだった。男は続け様に銃を撃ち返した。思わず床に伏せたまま身を竦める。銃声が途切れたと思ったら、男が忌々しげに銃を握った拳をテディの頭に振り下ろした。 「くそったれが(Son of a bitch)!! あとでたっぷりといたぶってから殺してやる、楽しみにしとけ!」  罵る男に襟首を掴んで引き摺られ、ステンレス製の冷蔵庫らしきものの陰に身を引っこめる。同時に再び轟き始めた銃声が、グリップで殴られた頭に響く。金属がぶつかるような跳弾音が四方八方からこだまする。応戦する男の拳銃と、短機関銃のリズミカルな発砲音がまるでコール・アンド・レスポンスのように交互に響く。  負傷の心配どころではなかった。いつ頭に銃弾を喰らってもおかしくない。運良くこの状況から逃げだせたとしてもこの男に殺される――テディは死がすぐ傍まで迫っているのを実感した。  このまま生きて皆のもとへ戻ることはできないのか。バンドはもう終わりなのか? ツアーはまだ途中なのに、もうジェシにもドリューにも、ユーリにもロニーにも逢えないのだろうか。  そして、出逢ってからなにがあってもずっと一緒だった、ルカにも――  銃弾が飛び交うなか、身を縮めながら、あの真っ直ぐに自分を見つめるブルーヘイゼルの瞳を想ったときだった――男がちっと舌打ちをし、テディを捕らえている手を離してポケットに突っこんだ。テディははっとして、視線と僅かな動きだけで背後を窺った――男が持っているグロック17はスライドが後退したまま戻らず、銃身(バレル)が剥き出しになっていた。  それを目にした瞬間、テディは男に体当たりを喰らわせ、直ぐ様身を伏せて転がった。目論見通りに銃声が聞こえ、ぐあっと男が呻く。取り落とした銃と弾倉(マガジン)が床に落ち、ごとんと音をたてた。反射的にそれを見て顔をあげる――男と目が合った。手から血が滴り落ちていた。跪いてこっちへ手を伸ばしてくる男の目を見つめたまま、テディは咄嗟に這うようにして両手で銃とマガジンを拾いあげた。 「こっちへ寄越せ――!!」  ものすごい形相でそう凄む男の眼の前で、テディは素早く銃にマガジンを装填し、スライドを引いて薬室(チャンバー)に装弾した。片膝を立て、驚愕に目を瞠っている男に真っ直ぐ銃口を向け、ぴたりと狙いを定める。  一瞬、まるで時が止まったように空気が張り詰めた。  そして一気に風が吹いた。「確保!!」という号令とともに、どたどたと何人もの足音が近づいてくる。男の周りはあっという間に黒い部隊で埋め尽くされた。  ほっとしてテディは銃口を下げ、ゆっくりと立ちあがった。忽ち襲ってきた疲労感に天井を仰ぎ、ふぅと息を吐いて肩から力を抜く。するとそこへ「無事でよかった。銃が使えるとは知らなかったな」と、〝イヴァン〟が近づいてきた。  BIAだったのかと思いながら、テディはマガジンを抜き、再度スライドを引いて薬室内の弾丸を排出した。そしてマガジンは戻さず、そのままの状態で〝イヴァン〟に渡す。その様子を、手錠をかけられた男が忌々しそうに見つめていた。 「つい最近まで、銃なんて触ったこともなかったんだけどね。……ああ、そうだ」  テディは、どういうことかと首を傾げている〝イヴァン〟に云った。「フラッシュメモリのことだけど、たぶん俺が在り処を知ってるよ」 「ああ、だろうと思ってた」  連行されようとしていた男が、今度こそ目玉が溢れそうなほど驚愕した表情で、テディを睨みつけた。

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