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第54話 サファイア

「飯は、たまに水飲むのも忘れて気絶するけど、思い出したら食ってるし、心配はいらねえよ」 「全然駄目ですね……。花子ではなくスミさんの面倒を見てくれる方を、置いておいた方がいいのでは?」  スミは仕事用の椅子に腰かける。 「いいって。どうせ今だけだし。大会が終わったらいつも食い倒れ旅に出てるしさ」 「身体に悪いことしかしてませんね。翁が聞いたらキレそう」  ニケは旅行用鞄を開くと、手をつけなかった非常食を取り出す。 「ひとまずこれ、あげますので口に入れてください。大会前に倒れますよ」  干し飯(ほしいい)。米を乾かして保存用としたもの。水にひたしてやわらかくするとすぐに食べられるが、歯に自信のないお子様やお年寄りはもっと時間を置いた方が良い。  顎と歯が頑丈なニケはそのままかじるが、水を加えた方がその分腹も膨れるだろう。茶碗一杯分くらいしかないが、何も食べていないよりはいいはずだ。  物置にあった「スミ」と書かれた茶碗に干し飯と水筒の水を勝手に注ぎ、スミに差し出す。 「はい。どうぞ」 「……」  食べ物を前にすると、急に食欲が刺激され空腹を一気に感じた。このひと月、花子のことだけを考え、自分を最優先にしてこなかった。そのせいでズボンがずり落ちそうになったが、好きなことに没頭できていたこの期間は、スミにとっては幸福だった。  作品が完成した今、食べ物を見ると涎が止まらない。  お椀を受け取ると、箸も使わずに流し込んでいく。 「そんな食べ方したら、咽ますよ?」 「我も干し魚を持っているから、これもあげますぜ?」 「え?」  スミが目を見開く。  温羅は「うーん。包みに入れておいけど、ずぶ濡れだな。まあ、食えなくはないでしょう」と言って、濡れている干し魚を差し出してくる。  鬼が何で……? と思ったが、食欲には勝てなかった。  干し魚を受け取る。 「ど、どうも?」 「いーですって。我が君の友人でしょうし?」  あんなもふもふ狂、友人じゃないと言いたいが鬼が怖くて言えなかった。がじがじと魚を齧る。うま味が美味い。  空になった器を床に置く。 「ふうっ。ごちそうさま。数日前から頭がふらついていてさ。熱もないしどうしたのか謎だったけど、空腹だったのか」  からからと笑うスミに駄目だこりゃと額を押さえる。 「スミさん。早く結婚して体調管理しくれる奥さん見つけた方が良いですよ? 命にかかわります」  口だけ笑いながらスミは自身の目を指差す。 「ニケ? 本気で言ってる? こんな青い目を好きになる物好きが、いると思ってんの?」 「え? 俺?」  顔を出した白い頭を掴んで、再びもふもふの中に押し込む。 「衣兎にとって青い目は不吉の象徴。産まれたら即、殺されるものだよ?」  スミが殺されなかったのは「青瞳くらい気にしないほど歪んだ」一族の出だったからだ。 「好きになってくれる同族なんていないぜ?」 「そういうものですか……」  温羅は退屈そうに壁にもたれる。薄い壁からミシッという音が聞こえたので、背を離す。 「衣兎族の青瞳はレア物ですからね、いい魔九来来防具が作れますぜ? 我が君にプレゼントいたしましょうかい?」  二人はぎょっと目を剥く。  壁際にいたはずの鬼が、瞬き一つでスミの眼前で仁王立ちしていたからだ。 「あ……あっ……?」  血の気が引く。衣兎族が何百何千集まろうと絶対に勝てない生き物。それがこんな近くに。しかもそら恐ろしいことを言っていた。  生きた心地がせず本能で後退ろうとして、椅子から落ちる。 「スミさん!」  ニケが叫ぶ。僕じゃこの鬼をどうこう出来ないぞ。  幸い、どうこうできる奴がすぐに割って入ってきてくれた。 「温羅さん。やめてね! これ以上スミさんに迷惑かけたら、本気で刺される」  迷惑をかけている自覚はあったのか。スミは白い尻を蹴りたくなったが、盾がなくなっては困る。フリーの背に縋りつくように着物を握る。  こんな状況なのに、スミがくっついてきてくれたのが嬉しくて口元が緩む。 「いいんですかい? 衣兎族の青眼球はサファイアとも呼ばれ、かなりの高値で売買されますってのに」 「大人しくしてるって、俺と約束したよね?」  似合わない険しい顔で睨んでくる主。  温羅は目をぱちくりさせると、笑みを浮かべ下がってくれた。 「承知」 「ひいぃ~。鬼が言うことを聞いてる。なんかキモイ。フリー君が」 「なんでっ?」  スミと花子は選手登録のために大会会場へと行ってしまった。 「俺たちはどうしようか?」  見えなくなるまで手を振っていたフリーは、ニケと温羅を振り返る。 「そうだな……。時間あるしなぁ」  大会まで四時間半ほど。一般人が会場に入れるようになるまで二時間もある。 「せっかくだし、王都を探索して昼飯を食べてから向かう、というのはどうだ?」  会場にもたくさん出店があるのだろうが、あまり早く向かっても、人ごみで疲れてくると思う。特に僕がな。  ――ま、その時はまた、肩車してもらおっと。  ふわふわと犬尾が楽しそうに揺れる。  フリーは温羅の意見も聞く。 「温羅さんは? どうかな?」  てふてふを眺めていた温羅は、驚いたような顔を向けてくる。 「どう、とは?」 「なんで驚いてんの? 温羅さんは首都に来たことある? あるならおススメのお店とか教えてほしいな。あ、行きたいところがあるなら言ってね」 「いちいち我の意見など聞かずとも、我は我が君の後に、どこまでもついて行きますぜ?」 「……」  穏やかな口調の温羅に、ニケはそっとフリーの着物を掴む。  ――なんか、イメージと違うなぁ。  フリーもだが、実際付き合ってみると流布されている印象とかけ離れているのはどうして?  鬼は剛力無双、豪快で野蛮。  人族は邪悪、世界の癌。  ニケのこれらの凝り固まっていた印象がガラスのように砕けていく。 (さっきちょっと怖かったけど、日常だと鬼も、こんなにのんびりしているものなの? こいつら本当に悪名高い種族ツートップか?)  今更ながら自分の側にいる種族にビビってしまう。まさかニケの人生で、知り合いに人族と鬼が加わる日が来るなんて。思ってもみなかった。 (鬼はさっき縁側で日光浴しているじいちゃんみたいな顔でてふてふ見てたし、フリーは阿呆だし、噂って当てにならんな……)  人族は悪だと印象操作するような噂を流し、定着させた者は一体何を考えていたのやら。呆れそうになるが、この部分を翁は教えてくれなかった。そう思うと不気味に感じる。  フリーは困ったように眉を下げる。 「? 意見聞かなくていいって、それってどういうこと? 温羅さんいるのに、無視しろってこと? ……俺は無視されたら悲しいから、そんなことしたくないよ」  温羅はなんと説明したものかと、うむむと悩む。 「え~っと、我が君は主なのですから『ついてこい』で、いいんですよ」 「俺と会話したくないってこと?」  鬼は項垂れた。 「あ、えっと……。おススメの店なら、いくつか案内出来ます」 「首都に来たことあるんだ?」 「ええまあ。百回くらい」  それを聞いたフリーは、がしっと温羅の手を両手で握る。 「そうなの? もっと早く言ってくれれば良かったのに。俺たち首都に全然詳しくなくて、店周ろうにも道も何も分からないから困ってたんだよ」  嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ねる。案内人ゲット、という気分なのだろう。ニケは面白くなさそうにフンッと顔を背ける。 「僕だって、地図があれば案内できるわ」 「俺は地図を見ても何も分かんないよ!」 「「……」」  いやそんな、下方向に威張られても。  温羅は「どうして我はこんなのと引き分けたんだろう」みたいな顔をしているが、ニケは楽しそうにテンションの高いフリーを見ると、なんだか嬉しくなった。 (ということは、フリーは楽しそうな僕を見ると、嬉しいんだな)  うんうん、そうに違いないきっとそうだ、と決めつけ、白い足をよじ登る。フリーはすぐに抱き上げてくれた。  温羅が片手を差し出してくる。 「荷物なら、我が持ちますぜい?」  フリーは鞄を背負いなおす。 「そんなに重くないから大丈夫だよ」 「いや、鞄じゃなくてその赤犬族」  何の感情も籠らない瞳で、ニケを指差す。 「……」  フリーの顔から表情が消える。 「……」  こういう空気になった途端、ニケは「やっぱ怖いな」と苦虫を噛み潰した顔になる。 「俺はフロリアと言います。フロリアです」 「はい」 「この方はニドルケと言います」 「はあ」 「次、ニケを傷つける言動をしたら死んでください」 「承知」 「えっ?」  ニケは素直に承知した鬼に驚く。

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