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第三章 髪を撫でる手⑤

 その晩。  この家で迎える二日目の夜。マティアスは藁製のベッドに、カイはそのすぐ横の床で毛布やクッションを借りて寝ていた。カイはマティアスが目覚めた安心感とこれまでの疲労でぐっすりと眠りに落ちていた。  だが…… 「……ウィル……、ウィルぅ……っ」  藁のベッドから手が伸び、カイの身体を叩いてくる。微かに呻くような声にカイはハッとし身を起こした。 「どうした? 気分が悪いか?」  暗闇で覗き込むとマティアスは半泣きのような顔でカイを見つめてきた。 「す、すまない。でも、耐えられなくて……っ」  マティアスの頬に手を当てて熱が無いか確かめる。   「少し熱があるな。傷は痛むのか?」  二階で眠るハラルドとヘルガを気遣い、ごく小声で話す。カイの問にマティアスは首を振った。 「か、髪を切ってくれ。なんか……匂ってきて耐えられないっ」 「は?」 「ご、ごめん、こんなの我儘だとわかってるんだ……ごめんっ」  森の奥の藻で淀んだ湖に落ちてそのままの髪。身体は拭いてやったが流石に髪を洗ってやることはできずにいた。  そう言えば城のサロンに呼ばれた時、マティアスは稽古で汗をかいたから湯浴みをしてたと言っていた。きっと城では当然のように毎日湯浴みをしていたのだろう。しかし田舎の民家では浴室など無いのが当然で、たまに(たらい)に湯を入れ身体を拭く程度が普通だ。それも週に一回かはたまた月に一回か……。湯を沸かす薪だって貴重なのだ。 「明日、髪を洗える所が無いかヘルガさんにきいてみるから、今晩だけ我慢してくれないか?」  切るのは簡単だ。だがこの髪を切り落としてしまうのはあまりに惜しくてカイはマティアスを(なだ)めた。マティアスは涙目で唇を噛み締めた。 「束ねよう。少しマシになるはずだ」  カイはそう言うと部屋の隅に積んであった道具から麻紐も少し貰うと、マティアスの枕元へ座りその長い髪を手櫛で梳かしざっくりと編み込んで麻紐で括った。  本来のマティアスの髪は絹のような滑らかさだが、やはり汚れているようでキシキシと強張っている。カイ自身も早く洗ってやりたいと思った。 「ごめん……こんな、我儘……ごめん……」  睡眠をとって回復に努めなければならないのに、不潔な感覚に眠れなくなっているのだろう。  カイは藁のベッドに伏せるとマティアスの手を片手で握り、子をあやすようにもう片方の手でその手をトントンと優しく叩いた。 「謝らなくていいし、何でも俺に言え。我儘だなんて思ってないから」 「ん……ありがと……」  マティアスは涙声で礼を言った。  手を握られ安心したのかそれほどの時間はかからずマティアスは眠りに落ち、カイもまたそのまま眠った。

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