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第三章 震⑥

 寝室に入るとマティアスは着ていた外套を脱ぐこともなく、自身のベッドを整えた。シーツを剥がし畳んで床に置き、布団も畳みその上に枕を置く。  それからチェストを開け、中に保管していたペンダントを取り出した。  ウィルから昔貰った木彫りの男鹿。割れて半分になってしまったがその優しげな眼差しは変わらない。そしてカイから貰った緑のビーズ。あの地下倉庫でくちづけた感触を今も思い出せる。どちらも愛しい思い出だ。  そのペンダントを首にかけ、チェストを閉めようとすると中に菜種油を入れた小瓶が転がっていた。  マティアスの髪の手入れ用にウィルバートがわざわざ買ってきてくれたものだ。湯浴みを手伝ってくれ、この油をつけながら髪を梳かしてくれるひとときはとても幸せだった。さらにこの菜種油を使って何度も身体を繋げた。こんなにも愛し愛された日々を送れたことは本当に幸運だった。 「ウィル、愛してる……」  マティアスはそう呟くとチェストを閉め、頭を切り替えるべく大きく深呼吸をした。そして寝室の中央に立った。  光の妖精の力を借り、空間を移動する。  初めてこの術を使ったのはウィルバートの記憶を奪ったあの裁判の後。意図せずバルヴィアと契約してしまい祖父イーヴァリに助けを求めた時だ。あの時は無意識とは言え、ウィルバートの元ではなく望んだ通りイーヴァリの元へ行けた。だから今度も出来るはずだ。同じ自国の危機。いや状況は今が最も悪い。  気持ちを集中させ、バルヴィア山へ行きたいと念じる。他のことは全て雑念とし、アルヴァンデール王国を救うべくバルヴィア山だけを目指す。するとバササササッと光の妖精達が大量にマティアスの周りに集まって来た。妖精の光りに包まれ目の前が金色一色になる。思い出が詰まった丸太小屋の寝室が視界から消えていく。 (ウィル、すまない……)  ほんの数秒で妖精達がまたバサバサとマティアスから離れて行った。そして(ひら)けていくマティアスの視界に入ってきたものは。 「マティアス、何をして……」  台所で驚きこちらを見つめるウィルバートの姿が目の前にあった。 「あ……」  マティアス自身呆気に取られているとウィルバートの顔みるみる怒りが満ちていく。 「マティアスっ! お、お前っ!」 「ウィル、あ、あのっ」  ウィルバートは拭いていた皿を置くと、マティアスに詰め寄り腕を掴んだ。 「一人で、一人で行こうとしたのか?! 俺を置いて!」  ものすごい怒りの声量だった。ウィルバートにここまで怒鳴られたことはあっただろうか。光の妖精たちが驚き飛散していく。 「何もっ、何も言わずに行こうとするなんて! 行ったって『黒霧の厄災』を一人でなんて鎮められないだろ?! 死にに行くようなものだ!!」 「で、でもっ! 行かなきゃいけないんだ!」  ウィルバートの怒りに対抗しようとマティアスも声を荒げた。しかしそれ以上の怒号が返ってきた。 「行かなくていい!!」

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